思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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『調べること』と『知っていること』

野崎まど さんの『Know』という小説を読んだ。とても面白かったので一気に読んでしまった。

know (ハヤカワ文庫JA)

本作品は近未来の京都を舞台にしたSF小説である。脳の一部電子化という設定で、世界は情報化社会から超情報化社会へ変貌を遂げる。そして、”調べる”という概念と”知っている”という概念の境界は曖昧になっていく。

『調べること』と『知っていること』、これは、現代社会においても、わりと切実な問題のように思える。何かを調べるために、かつては膨大な時間と労力を必要とした。例えば図書館に行って、大量の資料の中から、目的とすべく情報を探したりするように。しかし、今やスマートフォン端末のブラウザを立ち上げ、検索エンジンに調べたいキーワードを入力するだけで、膨大な数の情報を瞬時に集めることができる。『調べること』と『知っている』の隙間は現代社会であっても、かなり小さくなったと言えるだろう。

ポパーの言葉を借りれば情報化社会がもたらすのは知識を世界3上に押しやり、知識とはもはやその引き出しかた、つまり『調べること』という意味を包摂していくのだろう。これは学びのあり方が根底から変化していく様を予測する。

臨床医学に関する知識がある』というのと、『臨床医学に関する知識を調べる』というのは、かなり異質なスキルであるが、どちらが重要なスキルだろうか。かつては物知り、博学が価値のあるものとされた。しかし、「知識がある」、と『知識を調べる』の差異が埋まりつつある情報化社会はがもたらすものを考えてみたい。

確かに知識ゼロというのは効率が悪い。しかし、ある程度の知的バックグラウンドさえあれば、その領域における”権威”とも互角に渡り合えるのが情報化社会だとは言えまいか?

世界のあらゆる知識を、全て知り尽くすなんてことは不可能だ。多かれ少なかれ、人は知識を外部に依存している。だからこそ、今後ますます重要になってくるのは情報の引き出し方という問題である。

PubMed内の情報量が増えれば、それだけ検索が難しくなる。いや、Googleでも同じだろう。情報を常にタグつけている人とそうでない人、そこには『調べる→知る』というプロセスに大きな差異を生み出すことになるかもしれない。つまり、情報格差はそのまま知的格差に繋がる。