思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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臨床をめぐる中動態の世界

 現代英語において、文は必ず能動態(active voice)受動態(passive voice)のいずれかに属するといわれている。しかし、これは何も英語だけの問題だけではなく日本語でも同様であろう。実際のところ、意識しているにせよ、そうでないにせよ、僕たちは能動.受動という2つの態によって振る舞いを思考している。とはいえ、必ずしもこの2つの態で人の振る舞いの全てが記述できるわけではない。

『能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに分配することを求める。しかし……この区別は非常に不便で不正確なものだ。……だが、それにもかかわらず、われわれはこの区別を使っている。そしてそれを使わざるをえない』(國分功一郎 中動態の世界 p21)

 ともすると、「受動(passive)」という語によって「~される」という日本語と結びつけ、「行為を受ける」という概念と結びつけてしまいがちである。別言すれば、能動/受動というパースペクティブには意志という概念を浮き彫りにする力が宿っている。英語であれ日本語であれ、言葉には行為の帰属を尋問する力があるのだ。その行為は一体、誰に帰属しているのか?と。 つまり意志の所在を要求している。

 しかし、能動/受動を「行為の方向性」ではなく、「行為の質」として捉えらえてみてはどうだろうか。能動と受動は二者択一ではなく度合いを持つものと考えるのだ。僕らは完全な能動的振る舞いをすることはできないが、受動の要素を減らし、能動の要素を増やすことができる。このように考える事こそが、行為の帰属を尋問する力からの逃走の一手となる。そして、これは臨床における意思決定において、重要な役割を果たす。

[臨床をめぐる中動態の世界]

 医療において、治療方針に対する意思決定、つまり臨床における価値判断は、医療者や患者が能動的に決定するもの、受動的に決定するもの、その2つに区分できるように思える。しかし、現実は全くそうではない。たとえ自ら決断したとしても、その選択が致し方なく受け入れたものであれば、決して能動的な意志決定とは言えないだろう。そもそも、臨床における患者や医療者の振舞いには、完全な能動性など存在しない。

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(図)臨床をめぐる中動態の世界

 (図)を見てほしい。患者が医療機関を受診するという行為、あるいは医師の診察を受けると言う行為は必ずしも能動性を帯びていない。そこには少なからず受動性が混在している。例えば昨日テレビで見た健康番組で取り上げられていた”気になる症状”が自分にも当てはまってしまった。これはもしかしたら重大な病なのではないか……。そんな不安にかられたために医療機関を受診してみた、というケースはあるはずだ。この場合、テレビで放送された健康番組によって健康に対する不安を「募らされた」ために医療機関を受診したのであって、必ずしも能動性だけで説明できる振る舞いではないだろう。

 あるいは、本当は薬を飲みたくないけれど、薬を飲まないと医師に申し訳ない、家族に怒られてしまう、だから薬を「飲まざるを得ない」患者も多い。

  このような受動性を帯びた振る舞いは、患者のみならず医療者側にも垣間見える。例えば、「どうしても睡眠薬が欲しい」という患者の要望に、常用量依存や転倒リスクなどを懸念しながらも「処方せざるを得ない」医師の受動性を帯びた臨床判断がある。また、目の前の患者はおそらく風邪であると思われ、風邪に対して全く無効である抗菌薬を「調剤せざるを得ない」薬剤師の存在があったりする。

 患者にとって、健康への希望はおそらく、希望しようと思って希望しているわけではない。健康を希求すると言う行為そのものが受動性を帯びている。

『われわれは希望しようと思って希望するのではない。不確かな未来に、しかし期待せざるをえないとき、主体(主語)をその座として希望するという過程が発生する(國分功一郎. 中動態の世界 p89)』

 能動性の中に垣間見える受動性に注目することで浮き上がるのは、臨床における「意志」の不在である。能動/受動というパースペクティブから自由になれない限り、意志が希薄になっていくこのような世界の広がりに気づくことはできない。

 

 『スピノザによれば、意志は自由な原因ではなく強制された原因である。(國分功一郎 中動態の世界 p30)』

 能動、受動という区別を使わざるを得ないのは言語的な問題でもあるが、意志という概念があまりにも自明に実在するという僕たちの信憑に基づいているとも言える。しかし、意志とはよくよく考えれば、曖昧な概念だ。人は意志が存在すると確信している自身の振る舞いの起点を明確に特定でない。意志がある、という時の意志とは、主観的に感じられた何かではあるが、必ずしも行為の原因とはいえない。

 [中動的行為の対立概念としての《能動的》行為]

『能動と受動との対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる』國分功一郎 中動態の世界 p88

 医療者の臨床判断という行為は”主語が動詞によって示される過程の外にある”という意味での《能動的》行為であり、それに対して患者の意思決定という行為は”主語が動詞によって示される過程の内にある”という意味で中動的行為と言えるかもしれない。ここでも明らかなように、患者の意思決定は能動的でも受動的でもないのだ。そもそも、この議論における医療者の臨床判断すら、僕らが普段意識している能動性ではなく、中動態に対立する《能動態》的な行為なのだといえる。

 臨床で渦巻く「仕方なしに……」「……するより他ない」という想い。それは強制でも自発でもないが言葉として概念化されない何かであり、こうした状況こそが臨床をめぐる中動態の世界なのだといえよう。

 能動/受動とは連続的な概念であり、あらゆる振る舞いにおいて、受動性を排除した完全な能動性を志向することはできない。中動態の哲学はまさにこうした事態への気付きを与えてくれるものだ。それは臨床においても、もう少し自由な価値判断を提供してくれる可能性を孕んでいる。

[参考文献]

1)國分功一郎.中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)医学書院 (2017/3/27)

2)青島周一. 週刊医学界新聞 第3230号(2017年07月03日) 言語化できない思いをとらえる

3)青島周一.Gノート.2018年2月号(Vol.5 No.1)服薬アドヒアランスとは?