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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

カウンター カウンター

健康診断受診の本質、その認識構造から垣間見る存在論的考察

[健康診断に関するエビデンス]

通常の健常者を対象に行われる健康診断、いわゆるスクリーニングの目的は病気を早期に発見し、重篤な合併症を防ぎ、より長く健康寿命を保つために行われるという認識は大きな誤りではないと思われる。ところで、2012年に報告された健康診断の有効性に関するメタ分析をご存じだろうか。

 

Krogsbøll LT, Jørgensen KJ, Grønhøj Larsen C, et al. General health checks in adults for reducing morbidity and mortality from disease Cochrane Database Syst Rev. 2012 Oct 17;10:CD009009 PMID 23076952

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23076952

 

この研究は14のランダム化比較試験に参加した、健常成人182880 人を対象としたメタ分析で、健康診断の受診とその効果を検討したものだ。その結果、総死亡や心血管死亡、癌死亡に明確な差が出なかったという衝撃的な報告であった。相対危険はいずれもほぼ1.0であり、信頼区間も0.91~1.17の間という結果になっている。

一方で、2010年に報告されていた日本のコホート研究では死亡リスクの低下が示唆されていた。

 

Hozawa A, Kuriyama S, Watanabe I.et.al. Participation in health check-ups and mortality using propensity score matched cohort analyses. Prev Med. 2010 Nov;51(5):397-402. PMID: 20828583

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20828583

 

この研究は、国民健康保険の被保険者データを用いて40歳~79歳の48775人を11年追跡して調査したもので、全原因死亡は

男性▶調整ハザード比:0.74 (95%信頼区間0.62-0.88)

女性▶調整ハザード比:0.69 (95%信頼区間0.52-0.91)

有意に低下した。RCTでの検討が必要と結論しているものの、大規模な研究で長期間追跡されたこのデータは指しあたって貴重だろう。

 

ヨーロッパ系の人たちを対象とした観察研究でも同様の結果が示されている。定期健診を持続的に受診した人と、期健診を持続的に受診しない人たちを比較して総死亡を検討した結果、有意な死亡減少が示されたというものだ。

 

Henny J, Paulus A, Helfenstein M.et.al. Relationship between the achievement of successive periodic health examinations and the risk of dying. Appraisal of a prevention scheme. J Epidemiol Community Health. 2012 Dec;66(12):1092-6. PMID: 22563117

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22563117

 

2012年のコクランと観察研究とのギャップには様々な議論があるだろう。コクランのレビューでは解析論文が古い、と言う指摘もあるだろうし、観察研究では交絡の影響もあると言う指摘もできよう。

 

さらに2014年に報告された健診効果に関するランダム化比較試験の論文。

 

Jørgensen T, Jacobsen RK, Toft U.et.al. Effect of screening and lifestyle counselling on incidence of ischaemic heart disease in general population: Inter99 randomised trial. BMJ. 2014 Jun 9;348:g3617 PMID: 24912589

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24912589

 

当然ながら、この研究でも虚血性心疾患の発症や総死亡等を減少させるような効果は期待できないという結果になっている。(※総死亡はセカンダリアウトカム)

[健診の本質直観とは何か]

このように健診関連のエビデンスは介入研究(もしくはそのメタ分析)においてポジティブな結果は出ていない。その原因を批判的に探り、解釈を使用とする試みは、なにかエビデンスの向こうに“ほんとう”の真実があることを想定しているように思えるが、結局のところ、これらのエビデンスが真に正しかろうが、偶然の結果であろうが、現実を反映してなかろうが、そんなことは人間にとってどうでも良かったりするのだ。臨床疫学的データはそれが真であれ偽であれ、人間の生にとっての意味をコードできることを意味しない。後述するようにこれは、エビデンスに意味はないと主張するもではない。本稿での主張はエビデンスの結果をむしろそのまま受け入れろということだ 

健診で明らかにしたいのは「死」の可能性の定量化、概念化である。病気を何のために早期に発見するのか? 早期発見の効果に関して議論の余地は多分にあるし、僕個人は病気の早期発見が良いとする価値観に懐疑する。しかし、ここではその詳細を述べるつもりはない。病気を早期に発見するということは、その治療オプションを広げ、いまだ治癒可能性が高まるであろうことを期待しているからに他ならない。すなわち、病気の早期発見とは健康寿命への欲望であり、別言すれば、それを「死」という可能性を定量化することであろう。

死は誰にも経験できない経験不可能性という性質を有する。死というなにか実体が及ぼすものよりも、僕たちは、その恐れや不安が及ぼす力、自分が現存在できないという可能性の観念を恐れているのだ。人間にとって死とはそういった可能性の観念としてだけ存在しているのだ。

ドイツの哲学者ハイデガー(1889~1976)は「死という可能性観念を馴致し、隠蔽するのが人間なのだ」という。死とは何か、そこから垣間見える事、それは物事の本質とは、何か真なる客観、例えばカントの物自体みたいなものではなく、日常生活における現存在の実存に関わる経験的な意味の核心であるということだ。

やや難解であろうか。ここでマルティン・ハイデガーの死に対する考察を簡潔にまとめておく。

ハイデガー存在と時間

存在と時間という書物はハイデガーの主著であり、20世紀を代表する哲学書だ。その内容な一般的に難解と言われ、僕自身もその原書を読んだわけではない。ただその思想の概要をつかんでおくことは、「死」を考える際に重要な示唆を得ることができよう。 

まずハイデガーは僕たちのような、生きている人間を「現存在」という述語で表現する。この時点で何やら小難しい話だと感じてしまうわけだが、その主張はいたってシンプルであるのでついてきてほしい。現存在、すなわち人間は非本来的なあり方と本来的なあり方の2通りの仕方で生きているというのがハイデガーの主張の核心の一つであろう。そして非本来的なあり方が現存在にとっての日常であり、現存在は常日頃、多かれ少なかれ非本来的なあり方で存在しているというのである。

まあ少しまてと。非本来的ってなんだ、と言う話になるわけだが、端的に言えば、人間は誰しもが「自身のあるべき道を選択、獲得、喪失を決断することができる」はずだ。しかし、人間は通常、ごく当たり前のことを当たり前と認識し了解し、特に深く考察することもなく、常識的思考の中に埋没し、周りにながされ、「自分自身で主体的に決断するというあり方から遠ざかっている状態」であるというのだ。この状態を非本来的なあり方といい、その埋没の仕方を「頽落している」と表現する。

ここで注意したいのが、本来的なあり方が理想的な形態であるとか、本質であるとかそういう事はハイデガーは述べていない。非本来的なあり方と本来的なあり方は相互転換の関係であり、頽落はあくまで日常性というあり方そのものである。しかも僕らはこの非本来的日常的あり方ですら生き生きと感じているわけだ。

 

次にハイデガーの「死」の考察を簡単にまとめてみよう。

 

落命(いわゆる人間の死)は他者の死亡事例に関する経験から、引き出された事物的に出来するもろもろの死亡事例であり、一般的な「知識」に過ぎない。そして、死は未了という性格を帯びている。未了とはおよそまだ存在せず、しかも現存在がおのれに先んじてという仕方でおのれ自身のほうからそれに成らねばならない当のものである。いうなれば死は最極限の未了ということだ。

[健診のエビデンスをどう考えるか]

話をもどそう。死はすなわち他人事であり、僕らはそれを意識しようがしまいが、そういう仕方で死を認識しているのだ。そして多くの人にとって、健診は死を具体化する契機となりうるのかもしれない。だから不安もあるが、何も異常がなければまた日常へ「頽落できる」。 

この「頽落できる」心地よさが検診を受けることの最大の目的ではないか?頽落と言うのは人間にとって魅力的なものだ。さしあたって不快・不安なものと向き合う必要がない。国民の誰しもが望む一般的な健康診断のアウトカムは”「死」という可能的観念の具体化を避け、また日常へ「頽落できる」ことを得たい”ということではなかろうか?だから健診で死亡リスクが変わらないなんて言ったって、世の中の認識が大きく変わることはない。人間はそういう仕方で実存していることをハイデガーが既に明らかにしてしまっているわけだ。

健診のエビデンスをどう活用すれば良いのか、僕はこれまでよく分からなかった。介入研究のメタ分析は解析論文が古いと言われてしまえばそれまでであろう。だがしかし2014年のRCTでも同様の結果だ。スクリーニングを受けた症例が少なく、介入効果が薄まっているという指摘もあろう。ただ臨床試験の結果を踏まえるというのはやはりその結果に対するドクサを込みで思考するということだろう。

僕たちの認識には自明なものと思われている事物でも必ずドクサ(臆見)が含まれている。例えば、外で救急車のサイレンが鳴っていたとしたら、外には救急車が走っているということが疑えないこととして認識されるだろう。しかし、それは隣人が非常に良く似た音をただ鳴らしていただけかもしれない、という懐疑可能性を込みで確信しているのである。

やみくもに論文の結果をまるまる真実として扱い、鵜呑みにせよとここで主張するものでは全くない。けれども論文を読み、活用するというのはある程度の吟味をしたうえで、疑いを残したまま、結果の妥当可能性を確信するということだ。

[人は死ぬ] 

死とは経験不可能性を有する。だがしかし人は必ず死ぬ。これには例外が無い。おおよそ医療がこれほどまでに発展し、衛生環境も世界トップレベル、医療アクセスも良好なこの世の中で、人は簡単に死なないということが当たり前に認識されている。

今から数百年前、人生50年の時代。人はもっと死に近かったに違いない。必死に生きる。死は必然であり、逃れることができない。死に近い生き方の中で人は本来のあり方を取り戻す(ハイデガー)。死ぬことが当たり前の時代、人間はもっとたくさんのことを主体的に考えていたに違いない。

健診のエビデンスを如何に活用しようとしても、この国の人間の在り方を変えていかない限り、認識の変容は望めないだろう。いや健診に限らず、風邪に抗菌薬などなど、そもそも医療機関を受診しようとする医療アクティビティさえもが“日常へ「頽落できる」という”仕方で駆動されてゆくのだ。端的に言えば安心のための医療という構造が見え隠れする

これは非常に大きな問題だ。この国の医療財源は無限ではない。安心のためにどこまで財源を回すのか、安全とは常に疑いうるものである。それ故、それを突き詰めることは到底不可能である。生きる事こそリスクという言葉が示す通り、人間は死に向かって生きている。経験不可能性が隠蔽する「死」の存在。

僕たちは死ぬことをもっと真剣に考えないといけないのかもしれない。健康的な生き方が幸福であるというテーゼを掲げる限りは、人は死を遠ざけ、安心という生き方に埋没し、そこから死と向き合うことはこれからもないであろう。それが良いことなのか、悪いことなのか、僕にはわからない。ただ臨床エビデンスは、このような人間の在り方とは独立して一つの結果を生み出している。それを批判的に評価するのもまた人間である。そのことを忘れてはならない。生きる事への関心相関、いや欲望相関。本当の真実なるものは存在しない。そこにあるのは、欲望・関心相関的に切り取られた“ことがら”のみである。