思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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脱構築的決定に垣間見る病名の暴力性

「現前の形而上学と健康幻想論」では、ジャック・デリダ脱構築的思考プロセスを用いて健康と不健康の決定不可能性を暴いたつもりだが、やや難解だっただろうか。

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今回はその思索を病名付与にまで発展させていきたいと考えているが、再度ここで、西洋形而上学の伝統、いや僕たちの常識的価値判断の思考プロセスの軌跡をたどりながらデリダ脱構築的思考プロセスをおさらいしておこう。

その前に断わっておきたいのだが、このブログが目指すところは、人間の医療に対する常識的価値観と疫学的研究の示唆のギャップはなぜ生まれるのか、その探求を人間の価値観を支配する思想背景に求めている。そのため、人文科学のバックグラウンドを持たないごくごく普通の薬剤師が、近代・現代思想家たちの思考プロセスをあらためて学びながら、手探りで模索を進めているものである。解釈に大きな誤りがあることは多々あろう。その際はどうかどうか、ご指摘いただければ幸いである。

[階層秩序を生み出す形而上学

ソクラテス-プラトン以来の形而上学における階層秩序と言うのは、いわゆる二項対立だと思っていい。自己と他者とか。内と外とか。善と悪とか、身近なところで言えば男と女とか、そういった二項対立に対して僕たちは無意識的に序列をつけてしまう。しかしなぜ、このような二項対立と序列が生まれるのか。「現前の形而上学と健康幻想論」でも少し述べたがあらためて触れておこう。

パロールエクリチュールから復習だ。パロールとは「話し言葉」であった。それに対してエクリチュールは「書き言葉」である。パロールの場合、言葉が発せられるときには必ず、語る主体の存在が現に目の前にあり(現前し)、その言葉が主体の真意を伝えると考えられるのに対し、エクリチュールの場合、書かれた瞬間の現在を超えて、書いた主体不在のもとで、いや主体の死後においてでさえも読まれるということが可能である。

すなわちエクリチュールとは主体の死による主体の全面的不在にもかかわらず機能する記号なのだ。そしてそのエクリチュールは主体のオリジナル性を離れ、様々なコンテクストのもとで理解されうる。この主体とオリジナルコンテクストの不在のもとでエクリチュールは繰り返し読まれ機能する言葉である。この繰り返し読まれる反復可能性が認識された真理を忠実に再現しなければならない言語としての機能を脅かすというわけだ。

かくしてパロールエクリチュールに対する優位性が浮き彫りとなる。主体の真理を媒介するのはパロールでありエクリチュールはそれに付随するもの、純粋心理を求めるにはエクリチュールの徹底した排除が必要だということになる。

しかしパロールでさえも厳密な現前性を備えているとは言い難いのだ。主体から発せられた音声は主体の認識に遅れているのは明らかであろう。人間は純粋心理を言葉にしてありのまま伝えることなどできはしないのだ。パロールの中には既にエクリチュール性が含まれている

このように純粋な内部、すなわち優位項にはすでに外部である劣位項が入り込んでいるのだ。したがってこの世のあらゆる二項対立は本来、優位項と劣位項の決定不可能性に満ちていることを脱構築は明らかにする脱構築的決定とは決定不可能なものの決定であると言えよう。

プラトン主義的決定の暴力]

このように形而上学がもたらすのは二項対立とその階層秩序であり、その内(優位項)と外(劣位項)の決定する仕方を脱構築的決定に対してプラトン主義的決定と呼ぶことにする。プラトン主義的決定は階層秩序的な二項対立の優位に立つ項が、劣位にある項を徹底排除するという思考プロセスである。そこにはある種の暴力性が潜む。プラトン主義的決定は他者排除のための、いわば暴力的、あるいは支配的な決定であり、そのために階層秩序的二項対立を生み出す

プラトン主義的決定の暴力性は善悪のような階層秩序的な二項対立を構成し、いわば道徳(常識的価値観)を設定するわけだが、これは道徳的対立以前の暴力を隠蔽する。

どういうことか。

そもそも名付けることこそが暴力を前提としているということだ。

「病名とは何か、ソシュール言語学から垣間見る疾患成立の恣意性」

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でも触れた。名づける事により、本来連続的な正常と異常との間をカテゴライズ(分類)しているという構造は、ソシュール言語学から得られる大変重要な示唆だ。すなわち、名付けることは差異を生み出すことに他ならない。この差異が道徳(常識的価値観)を設定し、劣位にある項を道徳的(常識的)に悪と設定する。そして道徳的対立に終始することは、そもそも、それ以前において差異を生み出した言葉の暴力を隠蔽する。

[病名付与が生み出す暴力]

ここでもあらかじめ断っておきたい。病名を付与されることで救われることも多々あることは承知している。したがって本稿は大きな誤解を生じやすい。ここでいう病名とは健康長寿とは対立する概念、端的に言えば慢性疾患、人が年を経るごとに一般的に起こりうる身体不条理、具体的には認知症だとか、高血圧症だとか、糖尿病だとか、そういった慢性に経過して行く正常と異常との境目があいまいな疾患における病名だとお考えいただきたい。

プラトン主義的決定に従えば、病気は悪であり徹底的に排除される。プラトン主義的決定は病気と健常の二項対立を生み出し、健常こそが人間にとっての優位項であるとされるわけだ。ここに常識的価値観である健康長寿こそが善とする思想が生まれる。

しかし、ここで脱構築的決定は病気と健常の決定不可能性を暴き、そもそも、病名付与という医療システムこそが暴力的な意味を帯びていることを明らかにする。病名付与が及ぼす影響については

「病名と時間、構造主義医療から考察する疾患定義とは何か」

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で触れたためここでは詳細は割愛する。病名が付与された段階で「病気であるといコト」を生きねばならないと言うのはある種の暴力ともとれるのだ。もちろんその病名において余命が顕著に短くなる、重篤な合併症が引き起こされる、といったことであれば病名を付与し、治療介入を行うことは医療として正当化される。もちろん結果的に暴力でもなんでもなく正義であると認識されるであろう。しかしその病名が人間の生死となんらかかわりが無かったら、それははたして正義と言えるのか。

将来的にその病名が原因で亡くなるのか、(あるいは重篤な合併症がおこるか)どうかという観点において初めて病名が付与される意義があるのだ。ゆえに現段階で有効性が決定的ではないスクリーニングやら検診やらを、少なくともプラトン主義的思考でその是非を決定すべきではないと僕は思うのだ。