思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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思想的、疫学的、因果関係について

[疾患の原因は単一ではない]

ある事象が起こった時に、いったい何が原因だったのだろうか、僕たちは考える。あの時、転んでけがをしたのは、足元の石につまずいたからだ。だからあの石につまずいたことが原因なんだ。と、そう考えることは別になんの違和感もない。

しかし、ある事象が起きる原因メカニズムは非常に複雑である。転んでけがをした原因は石につまずいたせいなのか。そこに石ころがあったことも原因ではないのか。その日にそこを通らねばならない予定があったことこそ原因ではないのか。履きなれた靴を履いていれば転ばなかったのではないか。原因とは多くの場合で単一のものではなく複数の要因が交互作用を起こしている。多くの場合で、結果を招いた最終の要因を原因と考えるのでないだろうか。

しかし、一般に因果関係における原因とは単一ではないことのほうが多い。医療においても例外ではない。疾患の発生原因は複数性を有する。糖尿病を考えてみよう。その発症の原因は何であろうか。可能性のあるものを挙げてみればきりがないだろう。たとえば、食習慣、運動量、遺伝的要因、薬物の使用…。そのいずれもが原因になりうる。

 [因果のパイモデル]

疫学者Kenneth Rothmanは因果のメカニズムに関して、「因果のパイモデル」という考え方を提唱している。1)2)

Rothmanは疾病の原因について、まず十分原因(sufficient cause)を想定する。これは複数のcomponent から成り立つ「要因群」であり、それら要因群がすべてそろうと疾病が発生するというわけだ。すなわち複数性を有する原因について、その全体を十分原因と考えるのである。そしてそれぞれの原因構成要素を考えてゆくわけだ。このことはある重要な視点を提供してくれる。

ある原因というのは、十分原因を分母とし、ある原因を分子とした割合で示すことが可能となる。具体的に説明しよう。冒頭の糖尿病を思い出してほしい。ある一定の糖尿病患者集団において、食習慣、運動量、遺伝的要因、薬物の使用…のすべての合計が十分要因である。その食習慣が占める割合、運動量が占める割合、遺伝的要因が占める割合、薬物の使用が占める割合…というように概念化することが可能となる。

現代社会において、食習慣が占める割合が60%だとしよう。残り40%を他の要因であけあうことになる。このような状況では糖尿病の原因として食習慣は「強い原因」と表現される。しかし、将来的に、この集団が健康志向をめざし、食習慣が改善し、運動量も増えたとする。すると十分原因を分母とする各原因の割合は大きく変化するだろう。食習慣や、運動量は相対的に減少し、遺伝的要因や、薬物の使用の割合が増す。すなわちこの社会ではもはや食習慣は「弱い原因」であり、遺伝的要素や薬物の使用が「強い原因」と表現されるわけである。

[原因の強さという意味]

因果パイモデルにおいて、個別の状況において、原因と結果の間に存在するその関連性の強さを原因の強さと表現しているわけではない。「強い原因だ」、というのは原因と結果の間にあるなにか、引き合うような強さじゃない。そういう個別の観点からすれば原因は「ある」「なし」の二値的だ。原因の強さを理解するには個々の症例を考えるのではなく、集団において発生する全体の負荷としてとらえる必要があろう。

糖尿病の例で述べたように「強い原因」とは大多数の症例に関与している原因であり、また「弱い原因」とは少数の症例に関与している原因ということだ。すなわち、強さは他の要因の存在頻度に依存している。

このことが意味することが本稿の核心である。Rothmanは以下のように述べている

「強い原因、弱い原因という考え方は、どんな原因についても普遍的に正確な表現ではありえない。」2)

喫煙が体に悪いという言明は十分原因に対する割合的なものであり、現時点では多くの症例に関与しているということを示している。しかし、人間個別の状況を考えれば、喫煙が体に悪い人もいれば悪くない人もいるということだ。個別の視点から見れば、原因は「ある」「なし」の2値的な問題である。

原因の強さは社会、文化的、環境的要因に左右される。ある原因の強さとは、結果が引き起こされる全原因の割合で表されるものだからだ。現時点では喫煙は肺がんの強い原因かもしれない。しかし将来、喫煙者がほとんどいなくなれば、喫煙は弱い原因となり、相対的に遺伝だとか、そういった因子の原因の強さが増す。そして大事なのは、「ある人にとっては原因であり、別な人にとっては原因ではない」、ということだ。そしてそれは、原因の強さとは無関係なのだ。こういうことをすればこうなるという言明の妥当性の強さはこのように理解することで、腑に落ちることが多くなる。

[思想的、疫学的、死亡原因について]

死亡の原因はおそらく相当数あるだろう。その個別の原因を挙げることは不可能に近い。ただ個別の原因をあげ、その強さを想像することはできる。たとえば、「高速道路を猛スピードで走る車の正面に立ちふさがること」、これは死亡に至る非常に強い原因と表現できるだろう。それに比べたら喫煙などは弱い原因と表現してもおかしくない。

しかし、高速道路のど真ん中を歩こうと思う人はかなり少ないのではないか。社会的常識で考えれば、非常に強い原因なのだろうが、人間個人において、その原因が「ある」のか「ない」のかは別問題であることがお分かりいただけよう。

こういう生活習慣が悪い、こういう食事がいい、検診を受けることが重要だ…これはいずれも健康を手に入れるための「原因」を模索しているわけだが、健康という「結果」を手に入れるための原因要素は、これまで見てきたとおり、普遍的な言明ではない。ある人にとっては重要な問題である、ということに過ぎないのだ。またそれは社会的、文化的、環境的に変化し、他の要因の存在頻度でも変わってくる。一律に「こういう選択をすべきだ」、という仕方で、良い結果が得られるのかは、定式化できないのだ。ある人にとって、その選択がどれほど強い原因になりうるのか。そういった視点が大切であろう。

[参考文献]

1)Rothman KJ. Causes. Am J Epidemiol. 1976 Dec;104(6):587-92. PMID: 998606

www.ncbi.nlm.nih.gov

2)Kenneth J. Rothman (著),   矢野 栄二 (翻訳), ロスマンの疫学―科学的思考への誘い 篠原出版新社; 第2版 (2013/10)

ロスマンの疫学―科学的思考への誘い

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