思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第2回:薬剤効果とは何か~

「薬の現象学」本題である現象学的考察に入る前に、いくつかの準備をしておきたい。大まかなスケッチとして、薬剤効果とはそもそも何か、そして薬剤により効果がもたらされるという原因、結果の連なり、つまり薬による因果関係はどのような仕方で記述できるのか、それを踏まえたうえで、僕たちが認識している世界像と薬剤効果を対比させながら「薬の現象学」についての思索を展開していこう。本稿では、その準備段階の1回目として薬剤効果について論じる。

[治療効果、その視点をちょっと変えてみる]

毎年、冬季に流行するインフルエンザウイルスによる感染症。症状は人によってさまざまだが、40度近い高熱、関節痛などが長期間持続することもある。一般的な風邪と比べてはるかに重い症状が高い確率で起こるため、その症状緩和は、人によっては、非常に重要な問題かもしれない。

例えばあなたがインフルエンザにかかってしまったとしよう。病院へ行き、薬を処方してもらう。その薬にあなたが期待する薬剤効果とは何であろうか。辛い発熱や関節痛を和らげる効果、一般的にはそうかもしれない。しかしちょっと見方を変えれば、職場や学校にいつ復帰できるのか、というような問題も薬剤に期待する効果とは言えないだろうか。受験生にとって、インフルエンザ症状で学校、もしくは予備校に通えない期間が長引くほど、なにかやりきれない思いを抱えることになるだろう。あるいは職場で重要なプロジェクトを任されているにも関わらず、インフルエンザで欠勤なければならない状況が長引くほど、精神的な負担は大きくなるかもしれない。

薬剤効果を症状の緩和という主観的な視点から離れたときに、その患者が社会における役割において重要な影響をもたらすであろう、症状の持続(罹病期間)がどれだけ短縮できるのか、という観点が見えてくるのである。つまり、症状が緩和しても学校や職場に復帰できないのでは、薬剤効果としてはあまり意味がないという観点である。

この2つの視点の違いについて、それほど重要な差異ではない、そう思うかもしれない。症状が緩和すること、症状が早く収まること、なにかそれほど重要な違いがあるのだろうか。これはインフルエンザや風邪など、今起きている症状の対する治療、すなわち対症療法に用いる薬剤効果を考えるうえでは、それほど大きな違いを感じることはできないかもしれない。しかし、これが高血圧や糖尿病など、いわゆる慢性疾患の治療となると重大な差異をもたらすのである。

[何を目的に薬剤を投与するのか]

高血圧とは血圧が、平均的な値よりも高い状態であり、糖尿病とは、血糖値が平均的な値よりも高い状態である。当たり前のようで、実はこのことが薬物治療を行う上で、その治療目的に重要な概念を隠蔽する。

血圧や血糖値などの検査値データが平均よりもずれていること、人はなぜかそのことを恐れる。標準的でない体重、平均的でない検査値、平均的でない視力、聴力。人間は自身の身体能力はできる限り、平均値もしくはそれ以上に保っておかないと不健康であり、場合によっては病気として治療しなくてはならないと誰でも感じることはあるだろう。だから平均値からずれている数値を何とか是正すれば、健常者というカテゴリーに復帰できるのでないか、という思考プロセスは、非常に「平均的」な考えのように思われる。糖尿病では血糖を下げる、高血圧では血圧を下げる。そんなことは当たり前であり、そこに違和感はないだろう。高血圧や糖尿病は不健康である、といったい僕たちはどのような根拠をもってしてそう確信しているのであろうか。

現象学ではそんな自明で当たり前のことを疑うことから考え始める。あらゆる常識的態度をいったんカッコに入れてしまうこと、これを判断停止(エポケー)と呼ぶ。僕たちの身の回りに取り巻いているあらゆる概念は実は仮説的要素を少なからず含んでおり、原理的にはいくらでも疑うことが可能だ。「高血圧では血圧を下げることで健康的な生活をおくることができる」一見すると当たり前のようなこの記述も、では本当に健康的なのだろうか、ここでその健康的とやらを示してみてくれと、問いかけることもできる。高血圧患者と健常者を比較して、何がどう健康的なのか、その差異を教えてくれと、そんなひねくれた質問もできるのである。

おそらくこの場合、自覚症状のない高血圧患者と、年齢や生活習慣が同じ、高血圧ではない、いわゆる健常者の間には、主観的にも、客観的にも健康的な度合の差異を明確に記述することは困難なように思える。糖尿病で血糖値が高い人、糖尿病ではなく血糖値が普通の人、同じ年齢、同じ生活習慣であれば、健康という概念に関して、そこにどんな違いを見いだせるというのだ。

この違いを「今現在」と言う視点で立った時には実は何も見えてこない。これがある重要なポイントを見失うきっかけとなっている。

[対症療法における薬剤効果と予防を目的とした薬剤効果]

薬剤効果を考える際に重要なポイントが、今現在の症状を抑える、あるいは今現在の平均値からずれている検査値データを是正するという対症的薬剤効果と、今現在から10年後の死亡リスク、重篤な合併症リスクをどれだけ低下させることができるのか、という予防的薬剤効果に分けて考えるという事である。

風邪やインフルエンザでは鼻水や咳、頭痛や発熱など今現在において知覚される身体不条理だけで不健康と感じることができるし、その身体不条理が薬によって緩和され、より早期に軽快すれば薬の効果があったと言えよう。もちろん厳密な因果関係をこの記述だけで保証するものではないが、一般的にはそう確信できる。

しかし、高血圧や糖尿病などの慢性疾患ではどうだろうか。今現在起きている高い血圧、高い血糖は身体不条理として明確に知覚できるものだろうか。標準からのずれがあまりにも極端な場合、例えば高血糖の度合が非常に極端であれば、昏睡などを引き起こすこともあるが、通常は徐々に高血圧気味、糖尿病気味(糖尿病予備軍)となり、そしていつの間にか治療が開始されている、という状況は想像に難しくないだろう。

健常者にいきなり病名が付与されるわけだから、健常者から高血圧患者、健常者から糖尿病患者、そこに至るまでの過程は客観的には二極化しているとも言えよう。しかし知覚できる症状としては限りなく、なめらかである。例えば、今まで健常者であったあなたが、今日から病院で高血圧と診断されたとしよう。その瞬間から高血圧患者となるのだが、実際に今日から高血圧の感覚が知覚できる、などという事が明確には起こり得ないのではないだろうか。もちろん血圧が高いことで頭痛などの自覚症状が出る場合もあるが、生活習慣病などの慢性疾患において、多くの場合で自覚できる症状に乏しい。それは、知覚される症状ではなく、血液検査などの検査値が、平均的な値と比べてどうなっているかで判断されている疾患だからである。生活習慣病などでは、診断基準がそもそも自覚症状をベースにしていないことが多い。

このため生活習慣病などの慢性疾患に用いる薬剤は、自覚症状を明確に改善するという仕方では用いられない。もちろんそれまで抱えていた身体不条理が改善することがあっても、インフルエンザ感染症のような、寝込まなければならないような症状を緩和するとか、その罹病期間を短縮するとか、そういったことではない。一般的には平均値からずれてしまった血圧や血糖値などの検査値データを是正するという目的で使用されているように思われている。しかし大事なのは血糖を下げる、血圧を下げるという事ではないのではないか。この問いかけこそが薬物治療概念を構築するうえで最も重要なもの提起する。

[代用の治療指標と真の治療指標]

糖尿病や高血圧などの慢性疾患患者と健常者の違いは何か。血圧や血糖値などの検査値データの違い他にもう一つ、重要な違いがある。それは将来的な死亡リスクや心臓病、脳卒中などの重篤な合併症リスクが健常者より高いという事である。このような重篤な合併症の“リスク”は今現在で知覚できる身体不条理ではない。自動車で事故を起こすリスクが高い、と言う時のリスクが知覚できるであろうか?もちろん自動車事故による外傷は知覚できる。しかし、今現在において発生していない事故による怪我は想像することはできても、今現在においてありありと知覚することはできないのである。

重篤な合併症リスク、それは1年後か2年後か、10年後かにいきなり知覚しうる重篤な身体不条理と言えよう。そのようなリスクを如何に回避するか、慢性疾患に用いられる薬剤効果の核心はここにある。つまり、高血圧患者では血圧を下げるためだけでなく、脳卒中や死亡のリスクがどれだけ抑制されるかが重要なのだ。

薬剤効果を測る物差し、治療指標には2つの概念がある。これまで見てきたように、特に慢性疾患に用いる薬剤は、血液検査の異常値を是正するための効果、そして将来的に起こりうる死亡や重篤な合併症を抑制する効果、少なくともこの2つに分けて考えることが重要だ。

血液検査の異常値が是正されたかどうかは、薬を投与して割とすぐに検査をすればわかる。薬が投与して1か月後、再度血液検査をすれば、血糖値が下がっている、あるいは薬を投与して2週間後には血圧が下がっている。そういった結果が出ていれば、さしあたって薬剤が効いているという実感はあるかもしれない。しかし、この現象が示唆しているのはあくまでも将来の死亡や合併症リスクが減るであろうことを予測している代用の治療指標にすぎず、死亡や合併症がどれだけ減ったのか、という真の治療指標ではないのである。

少し具体例を挙げていこう。例えば、骨密度が減少していると骨粗鬆症などと言われることがある。骨粗鬆症の薬剤は骨密度を挙げる効果がある。しかし骨密度が多い、少ない、という差は実際に身体不条理として感じることができるであろうか。骨密度が上がった、と明確に知覚できることがあるだろうか。骨密度を測定する検査機器がなければ、僕の骨密度は低いです、と自信をもって言える人などいないのではないだろうか。骨密度という要素は実際に知覚しうる要素ではない。そして骨粗鬆症の治療に用いる薬は確かに骨密度を上げるかもしれない。しかし、大事なのは骨密度が低下することによって将来的に人が知覚しうる現象、この場合骨折のリスクがどうなるか、骨折により寝たきりになってしまうことが回避できるか、と言う問題である。この場合、代用の治療指標が骨密度であるのに対して、真の治療指標は骨折リスクであるとか、寝たきりの時間の長さである。

しかしなぜ、代用の治療指標と真の治療指標という2つの概念が強調されなけねばならないのか。代用の治療指標が真の治療指標を予測するものだとしたら、真の治療指標にこだわる必要はないのではないか、そのような批判も可能である。しかし、代用の治療指標の改善が、必ずしも真の治療指標を改善しないという事が実証研究で示唆されることは稀ではない。糖尿病の治療ではしっかり血糖値を下げても、あまり下げずに緩く治療した場合に比べて、心臓病による死亡や全原因死亡のリスクはほぼ同等であり、重篤な低血糖リスクが高いという臨床研究が複数ある。

また喘息の治療においては狭窄している気管支を長時間にわたり拡張し、呼吸を楽にする吸入薬剤がある。確かに呼吸機能が改善し、呼吸が楽になるという事はあるかもしれないが、このような長時間作用型の気管支拡張剤を3か月以上使うと死亡のリスクが増えるという研究も報告されている。

今ある症状、異常のみにとらわれていると、その後の人生における重大な健康への影響を見失う。つまり、代用の治療指標だけでは薬剤効果の全体をとらえることはできず、真の治療指標まで考慮して初めてその実効性が浮き彫りとなるのである。

[薬剤効果を論じるうえで大切なコト]

薬剤効果を論じるうえで特に重要なのが、人が知覚しうる現象にどのような影響を及ぼすか、という事だ。それが今現在起きている身体不条理を緩和するものであれば、対症的薬剤効果、将来的に起こりうるリスクを低減するものであれば予防的薬剤効果と考えられる。そしてその治療効果指標は、対症的薬剤効果ではリアルタイムなのでわかりやすい。一方、予防的薬剤効果は今現在において身体不条理が起きているわけではないので、その指標を代用の治療指標に頼らざるを得ない。

しかし、いつの間にか代用の治療指標ばかりが真の治療指標と思いこまれてしまっているという現実がある。これには疾患の病態生理、すなわちメカニズム理論、科学理論が作り出す、一種の信念だろう。血糖が高いなら下げれば健康的だろう、と言うのはある種の信念だという事である。実際に心臓病がどれだけ減ったか、そういったことを考えるのは難しい。心臓病が減るというのは人一人の知覚の中でどう解釈しても理解できない現象だからだ。つまり、心臓病はそのリスクが高かろうが、低かろうが、起こるか、起こらないかの2値的だという事である。したがって、真の治療指標は心臓病がどれだけ先延ばしされたか、死亡がどれほど先延ばしされたか、そういった記述の仕方の方が現象をうまく説明しているように思える。

薬剤効果を論じるうえでは、人が知覚しうる重大な転帰(合併症や死亡等)がどれだけ先延ばしにされるのか、あるいは辛い症状(罹病期間)がどれだけ短くなるのか、そのような人間個別の時間軸を込みで考えるべきである。