思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第4回:薬剤効果の認識原理~

前稿までにおいて、明らかとなった重要なことは、ある現象とそれに引き続いて起こった現象が、どのような状況で自明なものとして確信できるかどうかという問題であった。人は過去の経験から得られる示唆に基づき、必然性が明確に知覚できる現象の連なりを因果関係として捉える。また、その連なりになにがしかの関連はあるが、明確な必然性が、はたして本当に存在するのかと疑う動機を持つような現象と現象の連なりも存在する。

このように2つの現象が引き続いて起こった時に生じる「関連」は疑う動機を持てないもの疑う動機を持てるものが存在する。関連は5つに分類されることも述べた。あまり詳細を知る必要はないと思われるが、関連は因果関係だけではないという事が分かれば、この先の理解に支障はない。

本稿では、人間がこの世界をどのように認識し、それを実生活の中でありありと確信しているのかを考察し、薬剤効果がどのような原理で認識されているか、と言う点を考察することで、次回以降、薬剤効果の根本を捉えること、という本連載の核心部分につなげたい。

[世界を認識する仕方]

人間がこの世界を認識しうるもの、すなわち認識対象は、大きく2つに分けられる。もちろん、この分類の仕方には様々な批判が可能だが、本稿では2つに分けると非常に理解しやすいと思われる。また、そもそも分類は恣意的なので、2つだろうが3つだろうが、正解ということはない。

話しをもどそう。認識対象が2種類あるとはどういう事か。例えば、あなたが東京の住宅街に住む普通の会社員だったとしよう。あなたの家にはなぜか知らないが、昔から玄関の前に大きな石が置いてある。あなたは、玄関を見るたびにこの石を認識することになる。

毎日残業が続き、疲れ切ってしまったあなたは、どこか遠くへ行きたいと思い、帰りに本屋へより旅行のガイドブックを立ち読みした。京都には一度も言ったことがないので、いつか京都の仁和寺に行きたいなあ、などとあなたは旅行のガイドブックから仁和寺を認識することになる。

さて、上の例では認識が2つ出てきたことがお分かりいただけるだろうか。玄関の前にある石と京都の仁和寺である。どちらも認識していないという事はないだろう。この二つの認識は全く同じではない。その差異をあえて記述するならば、「実在物」の認識と「ことがら」の認識だ。

石は毎朝確認できるし、手を触れたり、後ろに回ってじっくり眺めることができる、確かに存在をありありと感じられる実在物である。一方、京都に全くいったことがないあなたは、京都や仁和寺の存在こそは疑わないものの、実際に実在物として認識しているわけではない。ガイドブックの写真から想像される世界像にすぎないのだ。

要約しよう。「実在物」とは、例えば目の前のコップやリンゴのようなもの、「ことがら」と言うのは思想や宗教、価値観、いまだ行ったことのない土地の世界像のようなものである。

先に、認識は2つに分類できると言ったが、これは便宜上の物で、厳密に言えば、「実在物」と「ことがら」というのは明確に2つにわけられるものではない。宗教や思想、価値観などは、実体として存在するものではないので、「ことがら」に属するとして違和感はないだろう。しかしいまだ行ったことがない土地はどうだろうか。京都に行ったことがないけれど、日本人なら京都の実在は疑わない。しかし、都会のど真ん中で、実際に京都を「実在物」として今ありありと知覚しているなんてことはない。人の経験と言う要素が加わると「実在物」と「ことがら」の間は実になめらかに変化する

[他者との共通了解における問題]

前稿で、人間が知覚できる薬剤効果とエビデンスが示す薬剤効果にギャップがあることが多々ある、と述べた。このことは同じ現象でも自己と他者で共通了解が得られない可能性を意味している。簡単に言えば、みんなそれぞれ感じ方が違うでしょ、と言う問題だ。同じ映画を見ても、僕はとても面白かったのに、一緒に見ていた彼女はとてもつまらなそうな顔をして、そのあとの食事もなんだか気まずい。そんなことはよくある。当たり前のことのように思えるが、この問題は人類最大の問題ともいえる。共通了解を得ることができれば、世界は限りなく平和になる。

玄関の前にある石。これはどう見ても石。まあ岩かもしれないが、石的なもので、これを人参だ、とかウサギだ、とかいう人はかなり珍しい部類に入ると思われる。またテーブルの上にあるリンゴ。リンゴの作り物と言う可能性はあるが、これをスイカ、だとか、玉ねぎ、と言う人はかなり稀であろう。石やリンゴというものをそもそも知らないという状況を除けば、このような「実在物」は割と共通了解が得られやすい。実際に目にとって客観的に評価することができるゆえに、人間は、その実在物をありありと感じることができる。

これは視覚や触覚、聴覚など人間の五感で知覚できうるものであり、その共通了解は人間の生物学的な身体同一性で支えられているからと言える。したがって「実在物」といえど、人間とサルとでは共通了解を導き出すことは難しいともいえる。

では「ことがら」はどうであろうか。京都に一度も行ったことがない人同士において、竜安寺から見える石庭の石の数や大きさは、なんとも共通了解が得られない可能性がありそうだ。いや、この例は非常にわかりにくいと思われるので、別の例を挙げよう。先も述べたが同じ映画を見て、面白かったという人と、つまらなかったという人では共通了解が得られにくいというわけである。映画の内容は実在物ではない。映画の物語の中で人が感じられる「ことがら」である。「ことがら」についてはどうにも共通了解が得られにくいという事は多々あるように思われる。

「ことがら」は人間個々が有する「感受性」がその良し悪しの判断根拠となっており、個人にとっての「感受しうる意味」において重要なものと、そうでないものに分節されている。これらは例えば同じ宗教を信仰するものであれば、その「感受しうる意味」の同一性により支えられており、共通了解を得られる可能性が高いが、異なる宗教を信仰するもの同士では、「感受しうる意味」の同一性は担保されず、共通了解の可能性が極端に低くなる。有史以来、人間は宗教的対立からあまたの戦争を起こし争いを繰り広げてきたことからも、この問題の重大性がよく分かるだろう。

[薬が効いたか、効かないかは”ことがら”に属する]

ここまでの示唆をまとめておきたい。人の認識には「実在物」を認識するプロセスと「ことがら」を認識するプロセスがあり、他者との共通了解は「実在物」よりも「ことがら」で得られにくい。したがって、「ことがら」に属する認識は、その客観的妥当性がどうあれ、個々人で全く異な可能性が高いという事である。

さて、薬剤効果の認識プロセスは「実在物」「ことがら」どちらに分類されるであろうか。薬剤の効果というものが僕たちとは独立して、いわば玄関前にある石ころと同じように、テーブルの上にあるリンゴと同じように存在しているとは考えにくい。薬剤の効果は「ことがら」に属する。ある人には効いたが、ある人には効かない。「ことがら」という認識プロセスだからゆえに乗じる現象である。つまり、人間は薬剤効果を客観的「実在物」として"感じる”ことは現実的に不可能であり、人間にとっての薬剤効果の判断基準は「ことがら」に属するのである。

第2回で考察した薬剤効果について思い出してみよう。例えば血圧が下がるという代用の効果指標において、薬が効いたとはどういう事だろうか。血圧がどの程度下がれば効果があると認識されるのだろうか。医学的にここまで下がれば良い、と言う基準があったとしても、それよりも低くなければ効果として感じない人もいれば、医学的な基準などどうでもいい、と言う人もいるであろう。

また死亡のリスクなど、真の効果指標はもっと複雑である。寿命が1年延びれば効果があるのか、10年延びなければ効果がないのか、1カ月でも延びれば効果があったのか、それは人それぞれの文脈にもよるし、統一したコンセンサスは得られそうにもない。寿命と言う時間は年単位、一か月単位、1日単位、時間、分、秒…切れ目のない連続性の中で、いったいどこからが寿命が延びたという効果につながるのだろうか。果てしない問題ではある。

 人間は人それぞれで、ある一定の基準をクリアした時に薬の効果を確信する。一定の基準とは、鼻水がおさまったとか、熱が少し下がってきたとか、血圧が1週間前よりも低くなったとか、エビデンスを読んで、死亡が50%減るという記述、などのことである。しかし薬を服用する側からすれば、エビデンスの記述は知覚できないために、薬剤の効果を確信する度合いにはあまり関与しないようにも思える。

予防的薬剤効果を期待する慢性疾患用薬ではエビデンス情報が示唆する真の治療指標に対する効果と、実際に知覚しうる効果は、そもそも次元が異なる。薬が効いたというありありとした知覚の中にエビデンス情報が示唆する効果は含まれていないことがほとんどだろう。エビデンス情報は患者の中に薬剤効果として知覚されえないのである。

また、主観的に知覚しうる対症的薬剤効果についてはどの程度の症状改善で薬が効いたか、というのは「ことがら」であり、共通了解を得ることが難しいことも良く理解できるであろう。これは慢性疾患における血圧や血糖値など代用の治療指標の改善についてもいえるわけだ。

論点を整理しよう。ある人には効いたが、ある人には効かない、という現象は、薬剤効果が「ことがら」であるがゆえに、認識できる効果に共通了解が得られないことに由来する。またエビデンスに従えば、それなりに有効な治療も、実際にはあまり効果がないというのは、人が認識する薬の効果は、エビデンスが示す効果を知覚しているわけではないため、エビデンス情報から知覚される「ことがら」と実際に薬を服用して知覚される「ことがら」が根本的に違う事を意味しており、原理的に一致を見ないという事である。

[科学的に因果関係かどうかは重要な問題ではない]

これまでの示唆から僕たちはひとつの重要な結論にたどり着こうとしている。第3回で述べたように因果関係をできるだけ正確に記述しようと試みるのが臨床研究(ランダム化比較試験)であり、薬剤効果を裏付ける科学的根拠あった。つまり、ランダム化比較試験のようなエビデンス情報は薬剤効果の因果関係をある程度保証するものなのである。

しかし、人が認識する薬の効果は、エビデンスが示す効果を知覚しているわけではないため、原理的に知覚できる薬剤効果との一致を見ない。薬を服用するものにとって、科学的に妥当な薬剤効果を示したエビデンス情報が、特に慢性疾患における予防的薬剤効果の判断基準になり得ないということが明らかとなる。

つまり、予防的薬剤効果において真の治療指標を検討したエビデンス情報は、患者にとって知覚しうる薬剤効果とは無縁の関係にあるのではないか、と言う問題が提起されるのである。これは薬剤効果の因果関係は薬を服用する側にとってそれほど重要でないことがある、という事を意味しており、非常に重大な問題のように思える。代用の治療指標改善が、必ずしも真の治療指標を改善するわけではないからである。これは複数の臨床研究で散見される事実であり、疾患を治療するために用いられている薬剤が逆に寿命を縮めている可能性もありうるのである。また真の治療指標を悪化させないとしても、ほとんど改善しないという研究は枚挙にいとまがない。対象となる疾患にもよるが、代用の治療指標ばかりが知覚され、それによって薬が効いたと確信していても、実はそれほど寿命は延びていないし、重篤な合併症についてもそのリスクがほとんど変わっていないという事は、程度の差はあれ、複数の臨床研究で示唆されているのである。

また、対症的薬剤効果はある程度エビデンス情報が有効な場合があるかもしれないが、主観的に知覚しうる薬剤効果は、因果関係の科学的妥当性とは無関係に成立することもありうる。

現代医療は薬剤効果を知覚できるものに頼ってきたために、真の治療指標の改善を目的とした薬剤投与がなされていないことが決して少なくない。今後、ますます高齢化を迎える中で、代用の指標ばかりにとらわれていると、服用していてもあまり意味のない薬が、やたらと使用されることになるだろう。僕たちは改めて、薬剤効果を根本からとらえ直す必要があり、またその示唆を医療者のみならず、全国民で共有する必要がある。次回以降、薬剤効果を根本からとらえ直す、その仕方、そして、薬剤効果が実は意外な関心からもたらされているという事を考察してゆく。