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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第6回:病名とは何か~

前稿で示唆されたのは、病名も一つの関心事であるという側面だ。風邪か、インフルエンザか、と言う問題で、たとえば、医師からインフルエンザだと言われたら、なんとなく、いつも以上に体がだるく、症状が重いと感じる。一方、風邪だよと言われれば、まあ、二、三日寝込めば何とかなるかなあ、と感じることはありうる。病名に向けられた関心が知覚しうる身体不条理を規定するという側面は少なからず存在するだろう。

本稿では、薬剤効果の世界像から少し離れ、あらためて病名とは何かを考察し、一部の身体不条理が病名によって構成されるものなのであれば、その病名もまた構成されうる可能性を示す。

[言葉と眼鏡]

僕たちは自分の目で世界を見つめている。

あなたは窓際で外を見ている。自分の部屋の窓の外には、遠くに山が見え、近くに川が見え、自分の近くには窓枠が見えているとしよう。山は自分より遠い世界だが、窓枠は自分にとってかなり近い世界である。しかし、たとえば、同じ景色について、眼鏡をかけた人が見ていたとしよう。山、川、窓枠、その遠近感は、視力の低下していない裸眼の人と大きく変わらないはずだ。眼鏡をかけていたとしても、山は遠く、そして窓枠は近い。裸眼に比べて光の屈折などの影響から、実際に知覚しうる遠近感は絶対的には相違があるかもしれない。しかし、山>川>窓枠という相対的な距離感は変わらないはずであり、これが変わるとしたら、それは実用的な眼鏡ではないだろう。

さてここで僕たちは重要なことに気づかねばならない。一番近いものが、たとえ眼鏡をかけていたとしても「窓枠であると知覚されている」その状況において失われている知覚がある。それは本当に一番近いものは眼鏡だという知覚だ。(もちろん焦点が合わないから見えるわけない、とする批判も可能である。しかし、ここでは見えるか見えないかではなく、その存在を知覚しているか、知覚していないか、と言う問題について言及している)

人は、見つめるまなざしの関心が世界を捉える中で、道具としての眼鏡という存在が失われ、それは身体と一体化する。例えば算数を思い出してほしい。まだ算数を習いたての頃、僕たちは4+6をどう計算しただろうか。指の本数を数えて答えを求めたかもしれないし、紙にリンゴの同じ数だけ描いて、その総数を一つずつ数えて答えを出したかもしれない。しかし、算数や初等数学を学ぶにつれて、僕たちは多くの場合で一桁の数字の足し算は、「紙と鉛筆」や「指」などと言った道具を使用しなくても計算できるようになる。つまり、計算と言う行為が道具を用いた“行動”ではなく、思考化するという事なのである。

ここで、人間にとって、ごく身近にある道具、すなわち「言葉」について考えてみたい。言葉はただの音声ではない。そこにはなにがしかの意味が含まれており、人は、その意味のやり取りをしながら他者とコミュニケーションをとることができる。社会生活を営むうえで、人間にとっては非常に重要な道具である。しかし、あまりにもありふれた、そして言葉があることが前提とした社会が構築されているために、僕たちは言葉の存在論的意味を忘れてしまう。言葉が存在しないという事すら疑えないこの状況は、なにか眼鏡をかけて素晴らしい景色に見入っている状況で、眼鏡の存在論的意味を失っているとことと似ていないだろうか。言葉の存在は誰もが知っている。しかし言葉とは何かについて、僕たちはあまり考えない。

[言葉とは何か]

僕たちは日本人であり、日本語を使う。もちろん、英語やフランス語を使うこともあるかもしれないが、さしあたり大抵、公用語は日本語である。

ところで、日本語には兄弟とか、姉妹、という言葉がある。親からすれば、2人の子供がいて、どちらか年上の方が兄、もしくは姉であり、年下の方が弟、もしくは妹である。また兄と姉、弟と妹の区別は性別を示している。年上、年下、男、女。兄弟姉妹と言うのはそのような仕方で差異化(区別)されている。

英語で兄弟、姉妹を考えてみよう。英語にはsisterbrotherという単語がある。Sisterは姉妹を表し、brotherは兄を示す。特殊な状況でない限り、ごく一般的にはbrotherとsisterこの2つしか言葉がない。日本語では男女の区別の他に、年上、年下という区別がなされていた。しかし、英語では男女の区別しかなく、日常的には年上か、年下はあまり強調されないのである。

兄弟、姉妹という言葉の裏には年齢を重視した思考、社会的価値観が含まれている。[1]年上を敬う、その文化的背景がbrotherで示されるような概念をさらに年齢で「分節」しているのである。もちろん英語話者にとっても2人の子供がいた場合、どちらが年上で、どちらが年下か、全く区別していないわけではないし、年上か年下が認識できないわけでもない。確かに現実に年上の子供と年下の子供は存在するのである。しかし、英語話者にとってみれば、brotherという世界像で十分に円滑な生活を営むことができるわけで、brotherという世界を日常のものとして捉えているのである。

どちらが優れた言語かを問う事はおろかである。先にも述べたとおり、言語には背景となる社会的価値観、文化、思想が含まれている。言語の優劣を語ることは文化、価値観の優劣を語ることに他ならない。

ソシュール[2]研究で有名な丸山圭三郎の言葉を借りれば、「この世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、コトバと言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、おおよそコトバによって切り取られる世界の見方が変わる」というわけだ。

[言葉の恣意性]

世界に存在する客観的事物存在、それぞれに様々な言語において名称が対応しているわけなのだが、その客観的事物存在をどのような観点でとらえていくかで、切り取られる世界が変わるのであり、その世界に対応する名称も異なるのである。つまり言葉が世界を切り取るのである。やや言い過ぎだろうか。言葉が世界を編み上げる、それも確かに大げさかもしれない。しかし、少なくとも医療においてはこの観点を強調しても良い、僕はそう思う。

どういう事だろうか。本題に入る前に、まずは言葉の基本的性質から考察したい。まず世界に存在する客観的事物と思われているようなもの、これはコップやリンゴ、あるいは犬のような動物、おおよそ世界に存在すると確信するすべてのものに対して、言語によってどのような名称が対応しているのか、見ていこう。

良く例として挙げられるのがイヌである。したがって本稿でも、たまにはひねくれた例を用いず、オーソドックスな解説を試みよう。日本語でイヌは犬である。そして英語ではdogである。イヌという実態に、日本語では犬、そして英語ではdogであり、実態に対する言葉の割り当ては、必ずしも犬である必要はないし、またdogである必要もない。言語によって恣意的(非自然的)に決められている。つまり、言語と客観事実とが、一対一で自然的に対応していないからこそ、民族や文化によって言語は異なるのだ。これを言葉の対応の恣意性と呼ぼう。

しかし、これまでの示唆を用いればはたして犬とdogは同じ客観対象を示しているのか、と言う問題である。兄弟とbrotherは同じ客観対象を示しているようで、年上、年下の概念に関してかなり相違がある。犬にはちょっと狼チックな犬も含まれるかもしれないが、dogでは含まれなくそれはwolfだよ、という事はありうる。

分かりやすい例が虹だ。虹は七色、僕たちはそれが7色あると普通疑わない。もちろん疑うこともできるが、僕たちはさしあたり大抵、疑う動機を持たない。しかしrainbowは7色ではない。それは赤・橙・黄・緑・青・紫で構成される6色の世界像だ。藍色は日本人にしか見えていないのだろうか。生物学的な観点からいえば、視神経が反応する色のスペクトルはアメリカ人でも日本人でもそう大きな差は無いし、物理学的に考えても虹は7個の色、もしくは6個の色が、単色で帯状になっているわけではなく、その境界は限りなく滑らかである。

虹、という言葉とrainbowという言葉、それぞれその言葉が、世界を7色と6色に切り分けているのであって、生物学的、物理学的相違の問題ではない。言葉が世界を編み上げるとはそういう事である。虹の色の数に絶対的なものなど存在しない。あるのは言葉により恣意的に分節された世界像である。このような言葉の性質を、分節の恣意性と呼ぼう。

[分類とは何か]

言葉には対応の恣意性と分節の恣意性があることを述べてきた。これは言葉の非常に重要な概念であり、言葉が身体化してしまうと見失いことも多い性質である。そしてこのことが示唆するさらに重要な問題が、「言葉が分類を生み出す」という事である。端的に言えばレッテル貼りのような仕方で客観的事物を差異化する。

世界に存在する生物は多種多様だが、その個体一つ一つを見ていくと、たとえば犬と狼はちょっと似ているかもしれないし、猫と山猫はかなり似ているかもしれない。また猫と虎に共通性が見いだせるし、ゴリラとチンパンジーも何となく似ている。昆虫などは、これとこれは違う虫だよ、などと言われても素人の僕にはよく分からない。コオロギだろうが、チャバネゴキブリだろうが、どちらもゴキブリに見える。僕にとってゴキブリという言葉が、なんだか気持ち悪い虫をカテゴライズする。そこに含まれている昆虫の種類は一般的な同一性を有していないかもしれない。昆虫の専門家、あるいはコオロギのファンなら、チャバネゴキブリとコオロギを一緒にするなどとんでもないことだと怒るだろう。

しかし分類に普遍的なものなどあるのだろうか。言葉が指し示す客観事物は、その言語によって異なる世界像を編み上げていることをこれまで述べた。これは人個人にとっても同様だし、さらに個物の名称ではなく、複数の個物をカテゴリ-としてまとめる言葉も同様であろう。つまり分類の仕方に不変で統一した絶対的な決まりなどないのである。現代社会において、一般的に共通了解が得られている分類は、そうすることでより多くの人が便利だから、と言う理由に他ならない。

例えば、信号機は赤(止まれ)黄(注意)青(進め)の3色に分類されているが。これが、赤(止まれ)黄(やや注意)オレンジ(かなり注意)薄い青(徐行して進め)濃い青(進め)でも良いわけだ。しかし、こんな分類の仕方では、「かなり注意」と「注意」の違いや、「徐行して進め」ってどうこと事なのか…、現実的に意味をなさない分類であり、実用上は混乱の原因でしかない。

分類は恣意的であるが、それがあまりにも複雑であるとそれは社会に受け入れられない。しかし僕たちは世界を分類せずには生きていけない。赤が止まれ、青が進め、と分類されていなかったら、僕たちは社会で円滑な生活を営むことができない。

また分類は力を生み出す源泉である。良い、悪いという言葉は世界を良いものと悪いものに分節する。またきれい、汚いという言葉は世界をきれいなものと汚いものに分節する。そして人間は良いもの、きれいなものを優勢に、悪いもの、汚いものを劣性にという価値観を備えている。例外もあるかもしれないが、多くの場合で良いことは賛美の対象となるし、悪いことは刑罰の対象になったりする。きれいなものはお金を払ってでも見たいが、汚いものはお金を払ってでも捨てたい。これはごくごく当たり前の人間の価値観だろう。良い・悪い、きれい・汚い、本当・嘘、こうした言葉による分類が、良い>悪い、きれい>汚い、本当>嘘、という「力」構造、すなわち二項対立を生み出す。

いじめの問題もこうした分類により生まれた二項対立によると思われる。何か人と違う、そういった価値観が、同じような人と異質な人と言う分類を行う。「同じような人」>「異質な人」(もちろん逆もありうる)という力の構造が立ち上がる。力関係は強者が弱者をと言う形で「いじめ」が起こりうるのである。

人は分類せずには生きられない動物である。世界を分けないと世界を理解することができないと信じている。しかし、世界を分けたからと言って世界を知ったことにはならないのである。

[病名とは何か]

病名も言葉である。そして身体不条理、すなわち人間が知覚しうる病気の症状に対応すると思われる言葉である。そして身体不条理と言う実態を分類し、体系化したものが病名分類である。

代表的な病名分類は国際疾病分類ICD10)だ。ここには様々な病名が分類されており対応するコードがつけられている。これは有病率調査など、病名を統計的に扱う事を可能にさせたり、またや治療効果を検討するための臨床試験でも、疾患定義として用いられる。ちなみに「しゃっくり」も「循環器系及び呼吸器系に関する症状及び徴候」の「呼吸の異常」に分類されているし、なかには「奇異な外観」などという、おおよそ病気なのだろうか、というような病名まで存在する。ありとあらゆる「異常」に名称がつけられ、カテゴライズされているのである

これまで考察してきた言葉についての示唆を現代医療に落とし込むとすれば、ごく端的にいうと、「さまざまな病気があらかじめ存在し(未発見である疾患と言えど…)それに対して人が病名を付けるのではなく、人が病名によって、本来連続的な正常(健康)と異常(病気)との間をカテゴライズ(分類)している」ということになるのではないだろうか。そして正常と異常という力の構造の中に医療と言う枠組みが存在する。異常への関心が、正常への関心を高める。そういった二項対立が垣間見える。しかしこの力の構造はのちほど考察するとして、病名ついてもう少し掘り下げていこう。

認知症という言葉とその実態]

これまでの考察から、病気の「実体」と「病名」の対応は二重の意味で非自然的(恣意的)だということが分かる。どういう事か。

認知症を例にしよう。まず一つ目は『呆け』という実体を『痴ほう症』と呼ぶか『認知症』と呼ぶかは社会文化的背景によるという意味で非自然的(恣意的)だということだ。日本ではかつては痴呆と呼ばれていた概念は、平成16年12月24日に厚生労働省の「痴呆」に替わる用語に関する検討会において、「痴呆」という用語は、侮蔑的な表現である上に、「痴呆」の実態を 正確に表しておらず、早期発見・早期診断等の取り組みの支障となっていることから、できるだけ速やかに変更すべきである。とされ、「痴呆」に替わる新たな用語としては、「認知症」が最も適当である、とされた。これは言葉の対応の恣意性という性質が顕著に表れている好例であると言えよう。

そして第2に、呆け状態をどこから病気としてカテゴライズするかという問題だ。これは言葉の分節の恣意性に起因する問題だ。認知症のスクリーニングは認知機能テストによる点数、MMSEスコアと呼ばれる点数の結果により、その数値が正常と異常を分節して行くシステムになっている。

MMSE (Mini-Mental State Examination) とは認知機能検査のことで30点満点のスコア評価により認知機能を調べる。認知機能なるものは正常から異常まで連続的に変化するもので、いったいどこから異常と取り扱えばよいのか非常に微妙な問題なのだが、MMESというスコアでは30点満点中、総合得点が23点以下の場合は、認知症の可能性が高いと判断される。日本ではMMSEではなく改訂版長谷川式スケール(HDS―R)が用いられることが多い。MMSEと同様に多くの場合で、30点満点で評価し20点以下を認知症疑いとする。これで確定診断になるわけではないが、人が有する身体不条理である「呆け」を正常か異常かに分節してゆくその手法はこのような手続きにより行われるのである。

このような構造はたとえば高血圧症や糖尿病でも同様である。血圧の値や血糖値の値が一般集団の平均的な値である「基準値」から逸脱しているか否かで病気かどうかが決まる。もちろん基準値は全く適当に決められているわけではなく、背景となる疫学的研究に基づき、その値を超えれば将来の合併症リスクが高まるなどの根拠により支えられている面もあるが、具体的な数値は社会、文化的背景により非自然的(恣意的)に決定されている側面は否定できない。収縮期血圧が150mmHg以上で治療を開始するか、140mmHg以上で治療を開始するかで、治療開始の対象となる患者集団の人数は大きく変化し、投与される医薬品の使用量も大きく変化することは自明だろう。つまり、基準値の妥当性の真偽ではなく、疾患の定義には社会、文化的背景など非自然的(恣意的)な要素が入り込む余地があるということなのだ。

このように病気と言われるような現象は診断基準という言葉によって単なる身体不条理という現象から疾患を非自然的に切り取るという側面を有する。病名という言葉をあてがうことで、現象をカテゴライズし、概念化し、認識し、そして治療を考えていくわけだ。

これまで見てきたとおり、病名分類もまた、現象の捉え方、医療や社会の常識・価値観により恣意的に分節される側面は明らかだ。もちろんこのように生み出された疾患概念が、治療体系をより明確にし、患者を支える制度設計が強化され、救われる人間も確かにいるはずである。これにつては後程考察する。

なお疾患成立については恣意的ではないという指摘もあるだろう。確かに、感染症などの急性疾患では、ウイルスが同定されたり、血管が詰まって脳梗塞が起きたりとその原因が明確であり、疾患成立は恣意的ではないという批判である。しかしながら、ここでは原因が明らかかどうかを問題としているのではない。感染症においてもウイルスや細菌がいるだけでは疾患として成立することはないだろう。また脳梗塞でもその重症度は大なり小なり幅が存在し、治療適応となるかどうかという意味において疾患成立は恣意性を帯びているということである

次回以降では病名が生み出す力の構造、患者固有の時間、そして病名の存在論的意味について考察して行く。またその過程で明らかになる示唆を、薬剤効果の現象論に応用し、さらに僕たちが妥当すべき薬剤効果の世界像について論じようと思う。

 

[1] そもそも漢字は中国から移入してきたものであり、当時の中国の儒教的思想からも年長者を敬うという価値観が想像できるのではないだろうか。

[2] フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)