思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

カウンター カウンター

薬の現象学~第7回:病名付与と患者固有の時間~

[疾患成立の恣意性と薬剤効果の恣意性に関する示唆]

前稿で僕たちは疾患成立の恣意性を垣間見た。健康と正常の切れ目のない間を、診断基準と言うような言葉、あるいは病名が切れ目を入れ、疾患概念を立ち上げる。またその成立には多分に社会構成的要素を含み、非自然的(恣意的)であるという側面を考察した。つまり、疾患(概念)は僕たちの思考とは独立して、客観的にこの世界にあらかじめあるという仕方で自存するのではなく、僕たちを取り巻く社会や、“異常・正常”という人間の価値観に基づく関心により、構成的に生まれる側面が少なからずあるという事である。

独立して自存する、とはややわかりにくい表現かもしれない。例えば僕たちは、怪獣とか、妖精とか、人魚とか現実には存在しえない生物や事物を、思考の中で概念として編み上げることができる。しかしそれらの生物や事物は、この世界に客観的に存在するとは言い難い。可能性はゼロとは言わないが、おそらく存在しないであろうことは多くの人間が確信しており、共通了解が得られるであろう。しかし、キリンやゾウは思考の中でも概念を構築することができるし、動物園に行けば実際に見ることができる、僕たちの思考とは独立して自存する生物である。つまり独立して自存するということは、僕たちの概念の中だけではなく、僕たちの思考とは独立して、それだけで世界に自立して存在するという事である。

疾患というような身体不条理の実態は、病名という概念で、この世界に独立して自存するわけではない。病名付与により生まれた疾患は、僕たちの思考の中で構成される概念なのだ。高血圧というような実態が、この世界に客観的事物としてどこかにあるわけじゃない。つまり、人間が、血圧の値を高いとか、低い、というように正常、異常という分類を行い、その差異を明確にするために診断基準というものを設定したに過ぎない。この差異の基準をどの数値にするかは、この世界に、あらかじめ決まっているわけではないのである。

おおよそ疾患成立の恣意性の要点はこのようなものである。そして、疾患が社会構成的、人の関心相関的に立ち上がるのだとすれば、その疾患から生じる諸症状も、一部では、どこか体の異常と言われるような実態が生み出すのではなく、「疾患」という概念そのものから生まれ行く可能性があることは第5回「関心相関的に発現される薬剤効果」で示唆しておいた。自分が思うよりも深い傷、と言われただけで傷口が痛むという事、あるいは、何となく体がだるく病院へ行ったらインフルエンザと言われて、なんだか余計につらい症状が出てくる、と言うようなことはありうる。

知覚されうる身体不条理が、疾患と言う概念から構成されるのであれば、この世界に独立して自存しない疾患は、知覚しうる症状すらも構成する可能性があるだろう。つまり、一部の身体不条理は社会構成的、人間の関心相関的に立ち現れるという事である。もちろんすべてがそうとは言わないが、知覚しうる諸症状は、身体不条理の「実態」とはかなりかけ離れたものである、という事は多々あると言えよう。したがって、知覚しうる身体不条理への薬剤効果もまた、科学理論上は効果の全く想定できない「プラセボ」でも効いたという事がありうるのである。疾患成立の恣意性は薬剤効果の恣意性を立ち上げる。

しかし、ここで結論を急ぐ必要はあるまい。このことは後に考察するとして、疾患成立の恣意性が立ち上げた世界像は、僕たちにどのような影響を及ぼすのか、本稿では病名付与が患者固有の時間へどのような影響を及ぼすのかを論じたい。

[モノとコトの差異]

「…というモノ」という言い方は「コップというモノ」、「机というモノ」というような具体的実在物を名指すような仕方で用いられる。「病気というモノ」、「認知症というモノ」というような非実在物も対象として含んではいるが、そこで問われているのは名詞的、主語的な実体として思考されているということだ。病気というモノ、いわば名詞的疾患解釈モデルの分かりやすい例が病名付与である。このことについては後に詳しく述べよう。

一方で「…というコト」という言い方はどうだろうか。「美しいというコト」、「病気というト」、「認知症というコト」 ここで「…」にあたるものは名詞的、主語的な立ち位置にはいない。モノとして、すなわち客観的対象としての病気や認知症があるわけではなく、病気というコト、認知症というコトとしてより行為的であり述語的なのだ。

やや抽象的な説明となってしまった。もう少し具体的な解説を試みよう。例えば、「砂糖は甘い」という時の”甘い”が指すものは、実在物である砂糖であり、客観的対象となりうる”甘いというモノ”である。しかし、「甘いメロディー」「お前は甘いなぁ」などという時の”甘い”は世界に対してとりうる実践的な関わり方としての”甘いというコト”なのである。甘い、の本質は味覚の対象となる実在物だけではなく”甘いというコト”として僕たちの前に開示された世界を受けとるその仕方である。

話をもどそう。僕たちは認知症というモノ」に直接不安を感じることは少ないが、「認知症というコト」は重大な問題である。このように「モノ」は僕たちにとって無差別的な客観対象になりうるのに対して、「コト」は僕たちのそれに対する実践的な関与を促す働きを有する。「…というコト」というのは現存在が世界に対する関わり方、あるいは人間の生き方そのものなのだ。 

[モノ的、コト的、病名について]

僕たちはこれまで、病名について、モノ的、コト的という言葉を用いて、病名が人間に与えうる影響を考察してきた。本節ではこの2つの病名概念を明確に区分するために、やや抽象的な概念であっつたモノ的、コト的という言葉をあらため、コンスタティブパフォーマティヴという概念を導入しよう。[1]

病名を医療者が患者に付与する際、医療者にとってはある意味で、概念の事実を陳述することに他ならない。ある景色を見て、「あそこに牛がいる」というような陳述は、医療者にとっての病名付与、すなわち「あなたは認知症です」と同じ構造であると言えよう。この場合、「牛」も「認知症」も、実在物であろうが、なかろうが、客観的立場の人間が、現象を一定の同一性に基づき、規定している。「牛」であれば、4本足で、体の色は白くて、・・・と言うような牛の特徴(牛という動物の同一性)を捉え、その事実を言語化したものであり、認知症も、認知機能スコアやCT画像などの所見(認知症を診断するに当たり必要な同一性)を言語化したものだ。

医療者や健常者のような客観的立場の人間にとっての病名をコンスタティブな病名(事実確認的病名)と呼ぶことにする。一方、病名を宣告された、当の患者本人は、その時点からまさに自分の事として病名と向き合うことになる。症状が進行しないために明日から何をすべきなのか、仕事は続けられるのか、そういった患者本人の日常行動を病名により規定されてしまうという側面を有することから、患者にとっての病名をパフォーマティヴな病名(行為遂行的病名)と呼ぶことにする。

[病名と時間]

病名に関するコンステタィブ、パフォーマティブという2つの概念をもとに、病名を付与することとはどういう事かを考察していこう

高血圧を例にしよう。高血圧は正常血圧に比べて血圧の値がやや高い状態のことである。そのため将来的にやや脳卒中リスクが高い。ここで大事なのは将来的な脳卒中リスクがどの程普高いかという問題である。年齢を重ねれば、血圧が正常であっても脳卒中リスクが高くなることは疫学的研究(人間を対象にした臨床研究)により示されている。したがって、時間の経過とともに、どのくらいのスピードで脳卒中が起こり得るのか、それが高血圧と正常血圧でどのくらいの時間差が有るのかと言う問題がさしあたって重要なわけである。高血圧という状態が10年後も高血圧であり、それ以上でもそれ以下でもない場合、それは治療すべき高血圧と言えるのか、と言う問題は、治療をうける患者の年齢にもよるだろう

例えば50歳であれば10年後は60歳であり、まだまだ余命は長い。したがってそれ以降の予後を込みで考える必要があるのに対して、現在90歳である患者に対してはどうであろうか。語弊を恐れずに言えば、高血圧により脳卒中を起こして亡くなるというよりは、寿命により亡くなる可能性が高くなる。したがって両者を同じ治療すべき高血圧症としてカテゴライズするには原理的に無理がある。

治療をするために病名をつけるのであれば、病名は「時間を含む変なる現象」であり、本来モノではなくコトとして定義すべきである。病名にはその後患者が死亡するなどと言った時間的な流れは定義化されておらず、「高血圧というコト」であるはずが、「高血圧というモノ」として定義されてしまう。このようなモノ化としての病名定義は、どのような患者であれ、条件さえ満たしてしまえば、将来リスクや予後に大きな差が有るにも関わらず、そのことについてあまり考慮されず同一の治療が開始される恐れを孕んでいる。

認知症を例に挙げ、これまでの思索を振り返ろう。患者本人とって、認知症は、認知症という「モノ」ではなく認知症という「コト」である。しかし医療者は多くの場合、認知症認知症という「モノ」として定義せずには取り扱えない。なぜなら疾患は、「モノ」として取り扱うことで、はじめて学術的に定義し、診断し、治療方針を決定する、すなわち疾患を概念化することが可能になるからだ。一方で患者にとっては、疾患は自覚的に感じた瞬間、あるいは他者に発見された瞬間から「コト」であり、刻々と変化する自分自身の「コト」の中で実践的に関与しうるのである。つまり、医療者にとっての認知症はコンスタティブな病名だが、患者にとっての認知症パフォーマティブな病名という事なのである。

[時間を生み出す形式]

現象そのものは時間を内包する。すなわち不変の現象は存在しない。変わっていくことが今わからないとしても、変わったことは分かるものだ。例えば今の僕自身、5分後に何か変わるとすれば、顔の形とか、身長や、体重はそれほど変わるはずもない。しかし20年前と比べれば、それは大きく変わっていることは明らかだ。

時間とともに変化する僕は、しかし僕であり続ける根拠はどこにあるのか。「僕の名前」は10年前も、そして10年後もおそらくは変わらないけれど、「僕」は変わっていく。もっとメタボになっているかもしれないし、この世にいないかもしれない。このように「名」とは時間を生み出す形式であるという事に気づかされる。 

人の「名」以外にも様々な現象に「名」がある。疾患と言うような身体不条理の実態に対しても同様であり、これまでに考察したとおりそれは「病名」だ。「病名」は様々な現象をコードする不変の何かであり、診断基準に支えられ、治療方針が標準化されていることもこれまで考察してきた。医療者は、こういった身体不条理というような実態を現象としてとらえ、病名という言葉にコードしていく。

先にも述べた通り、「高血圧症」という言葉は時間を含まず、診断基準という不変の同一性に支えられた「モノ」ではあるが、実際の患者にとっての「高血圧」は「モノ」ではなく「コト」である。患者は今を生きる、すなわち時間を含むものであり、患者個々の「高血圧」は時間を含む変なる現象といえる。 

具体的に1年後の「高血圧」はどうなっているか考えてみよう。コトバとしての「高血圧」、すなわち高血圧というモノは1年後も「収縮期圧140mmHg以上、もしくは拡張期圧90mmHg以上」という不変の現象を名指す。しかしながら患者にとっての高血圧は時々刻々と変化する高血圧というコトである。血圧がより上がって、めまいや頭痛の頻度が増えているかもしれない。あるいは「高血圧」から脳卒中をおこし、寝たきりとなってしまっている、あるいは亡くなってしまったかもしれない。

「モノ」としての「高血圧」、すなわち病名としての高血圧は患者が死んでしまうとか、高血圧のコントロールが悪化して、めまいや頭痛がでるとか、脳卒中が起こるとか、そういった事は定義されていない。あくまでも血圧が高いという不変の同一性を定義しているにすぎない。しかし目の前の患者は現実を生きており、その時間性を考慮せずにはいられない。時間を前に不変なものなど存在しないのだ。

モノ化された「高血圧」という同一性、つまりコンスタティブな病名という概念に支えられ、医療者は降圧治療を考えるが、同時に患者の「高血圧」は時間を内包した「高血圧というコト」、つまりパフォーマティブな病名である。実臨床で、不変の同一性を有する疾患定義は便利なものであるが、同時に患者固有の時間を見失うことも多いのだ。

このことは、検診事業を始めとする病気の早期発見において重大な問題を孕んでいる。コンスタティブな病名が通常の医療アクティビティよりも早い段階で付与されることが病気の早期発見と考えられる。しかし「コト」としての疾患が早期発見によりどのような影響を患者本人に及ぼすのかという問題が重要である。「コト」としての疾患が、早期発見により、その時間軸において幸福な時間をもたらすのか、それとも不幸な時間をもたらすのか。医療者から見ればモノ化された疾患は患者の時間軸の中で不変の同一性を有しているが、患者から見れば全く不変ではないのである。病気の早期発見、早期治療がもたらす患者固有の時間への影響は慎重な議論が必要だろう

[病名付与が生み出す暴力性]

病名を付与されることで救われることも多々あることは承知している。それについては後程考察するが、本節では特に、健康長寿とは対立する概念、端的に言えば慢性疾患、人が年を経るごとに一般的に起こりうる身体不条理、具体的には認知症だとか、高血圧症だとか、糖尿病だとか、そういった慢性に経過して行く正常と異常との境目があいまいな疾患における病名について考察していこう。

常識的価値観によれば病気は悪であり徹底的に排除される対象となりうる。病気と健常という分類は二項対立を生み出し、健常こそが人間にとっての優位項であるとされるわけだ。ここに常識的価値観である健康長寿こそが善とする思想が生まれる。

病名が付与された段階で「病気であるといコト」を生きねばならないと言うのはある種の暴力性を帯びることがある。もちろんその病名において余命が顕著に短くなる、重篤な合併症が引き起こされる、といったことであれば病名を付与し、治療介入を行うことは医療として正当化される。それは結果的に暴力でもなんでもなく正義であると認識されるであろう。しかしその病名が人間の生死となんらかかわりが無かったら、それははたして正義と言えるのだろうか。つまり、将来的にその病名が原因で亡くなるのか、(あるいは重篤な合併症がおこるか)どうかという観点において初めて病名が付与される意義があるのだ。

高齢になれば誰しもが慢性疾患や身体不条理を感じる。大事なのは、抱えている当該疾患が原因となって死亡に至るスピードと本人の寿命そのものスピードの、競争のゆくえなのである。 

[病名により救われる人もいる]

これまで、病名について「モノ的」「コト的」そして、さらにコンスタティブな病名、パフォーマティヴな病名という概念を導入し、病名におけるその存在論的差異[2]を考察してきた。とりわけ健康と疾患の境目があいまいな慢性的疾患において、病名付与が人に与える影響に関して、負の側面を強調してきたかもしれない。世の中は、病気の早期発見、早期治療という方向に傾いているように思える。したがって、ここで負の側面を強調することには、少なからず意味のあるものだと思っている。だからと言って、病気の早期発見や病名付与が悪であるという立場をとらない。人間は自由に選択する権利があるわけで、僕は選択肢が多いほど、人はより自由に生きることができると思っている。

化学物質過敏症という疾患をご存じだろうか。化学物質過敏症とは健常人であれば、全く問題とならないような微量な化学物質にさえ敏感に生体反応を起こし、多臓器にわたり、多彩な症状を呈する疾患である。[3]

2009年に保険病名として化学物質過敏症が登録され、患者が知覚しうる現象から、「化学物質過敏症」という言葉により概念が分節し、疾患として具体化されたものの、その概念普及は、いまだ完全とは言えないだろう。

化学物質過敏症の病態についても不明な部分が多く、診断基準が明確に確立されているとは言い難い。疾患の成立には臭気や先入観などが関与し、明確な根拠がないとする懐疑論もある[4

しかしながら、現象学的考察に基づけば、客観的な疾患メカニズムが証明されていようがいまいが、当の患者にとっては、そんなこととは独立して、身体不条理は確かに知覚されているのであり、それは確信として疑えないものだという事なのである。このように明らかな客観指標がないこと、また発症メカニズムの不確定性や、症状が不定愁訴でることなどから、時に心因性などとされたり[5]、適切な病名が付与されないという事態は十分に起こり得る。

[病名が付与されないという苦しみ]

明らかな身体不条理を知覚しているのにもかかわらず、病名が定まらないというのは、患者本人の不安のみならず、治療概念そのもの適応が困難である言う事である。疾患とは、患者自身の身体不条理から、病名という言葉によって分節されることで、はじめて概念として成立するわけであって、病名が定まらない限り、明確な疾患及び治療概念はこの世に存在しない。そのため、当該身体不条理に対して、社会や医療はなんらサポートできない。これは非常に重大な問題を孕んでいる。つまり、医療は実体概念化した身体不条理しか扱えないのである。病名により救われる人は確かに存在する

現代医療は、実体すべき疾患を実体化せず、実体することにあまり意義のない疾患を実体化している、そういったことはないと明確に否定できるだろうか。医療は、単に健康的、あるいは不健康的なイメージの押しつけをしてはならない。2項対立による「力」の構造の成立を極力避けるべきである。そのためには疾患として治療して行くことの意義、そしてその実効性に関して

より多くの情報を提供し、患者が自由に選択できるという仕方で、関与すべきなのだ。このような仕方でしか、コンスタティブとパフォーマティヴ、その病名の存在論的差異を埋めることはできないのであろうと僕は考える。

[薬剤効果の世界像の解体と再構築の必要性]

これまで疾患成立の恣意性と病名が生み出す「力」の構造、それにより患者の固有の時間がどのような影響を受けるのかを見てきた。健康と異常の境目などない、異常と言うレッテル貼りで救われる人もいれば、苦しむ人もいるし、あるいは何も感じない人もいるだろう。

異論もあるかもしれないが、疾患成立が恣意的に構成されるものなのであるならば、その諸症状、すなわち知覚される身体不条理も恣意的に構成されてゆく側面を有する。外傷や風邪とインフルエンザの例はこれまでにも述べたが、たとえば高血圧や糖尿病などの慢性疾患も、本質的には同様だ。高血圧、糖尿病と診断されることによって、患者固有の時間は、正常から異常という時間性を生きることとなる。これまで他人事として存在していた病名が、まさに自分のコトとして迫ってくる。コンスタティブなものからパフォーマティヴなものへと変わるその瞬間に、自分は不健康であるという生き方を社会から要請される。

高血圧や糖尿病などの慢性疾患は将来的に脳卒中や心臓病などの重篤な合併症リスクが高いという事であって、今現在知覚しうる身体不条理がないから、その諸症状が社会構成的に編み上げられるわけがない、と批判することもできるだろうが、病名から考察したように、患者固有な時間はコンスタティブな病名からパフォーマティブな病名へと変化しいているのである。つまり、それは少なくとも患者にとって世間一般的に言われるような健康的な時間ではなく、不健康的な時間軸を構築しているわけで、それも一つの身体不条理とは言えないだろうか。そして血圧を下げる薬や、血糖値を下げる薬で、不健康的な生き方を少しでも改善する、と言う仕方でそのような身体不条理を緩和している、そういった見方もできるであろう。

現代医療は危機に直面している。高騰する国民医療費に対して医療財源は限界がある。人間が知覚しうる身体不条理のすべてに対して、有効な治療を個別に行うわけにはいかないのである。制度としての医療は全国民共通のリソースであり、国民が最低限、健康で豊かな生活に資するためになくてならない枠組みである。僕たちはこれまでの考察を踏まえて、今後の医療をどうとらえ直していけばよいだろうか。少なくとも、現在常識に登録されている薬剤効果の世界像を完全に解体し、すべての国民が妥当かつ有限のリソースを有効に活用できるよう、あらためて、その世界像を構築せねばならないだろう。

 

 

[1] コンスタティブとパフォーマティヴはJ.Lオースティンの「言語と行為」で述べられている概念。単に言語テクストだけを分析してみると「あなたの後ろに牛がいる」というテクストは単に景色を陳述したコンスタティブなものか、牛が今にも襲い掛かろうといているためあなたに対する警告として発話されたパフォーマティヴなものなのかという決定不可能性を露呈する。

[2] ドイツの哲学者、マルティン ハイデガーは主著「存在と時間」の中で、世界内に存在する存在者を2つの概念でその在り方を説明する。例えば、ハンマーが、くぎを打つために使用されている状態において、ハンマーは「道具的存在者」として存在していることに違和感はない。しかし、ハンマーが道端に落っこちていて、ぼんやりと眺められている状態であれば、ハンマーは単に「事物的存在者」として転がっているだけである。この道具的存在のありかたと事物的存在の在り方の差異を存在論的差異と呼ぶ。なお道具的存在者とか事物的存在者というのは、それぞれの存在者に固有の存在様式ではなく、ある存在者により、道具的存在者となることもあれば、事物的存在者にもなりうるということだ。ただの石ころでさえも、ハンマーの代わりとして道具的存在者になりうる。

[3] Cullen MR. The worker with multiple chemical sensitivities: an overview. Occup Med. 1987 Oct-Dec;2(4):655-61. PMID: 3313760

[4] Das-Munshi J, Rubin GJ, Wessely S. Multiple chemical sensitivities: A systematic review of provocation studies. J Allergy Clin Immunol. 2006 Dec;118(6):1257-64PMID: 17137865

[5] Staudenmayer H, Binkley KE, Leznoff A,et.al. Idiopathic environmental intolerance: Part 2: A causation analysis applying Bradford Hill's criteria to the psychogenic theory. Toxicol Rev. 2003;22(4):247-61. PMID: 15189047