思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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医療における「悪」とは何か~事実と価値の2分法から垣間見る臨床判断の姿~

〔信念への懐疑と真理の追究〕

僕たちにとって十分に信頼に足るであろう信念が、積み重ねられる経験の中で極めて疑わしいものとなることは多々あるだろう。知的探求における懐疑とは、チャールズ パース[1]に言わせれば、「実際の行為の文脈のなかで、疑わしいものと見なされるようになった古い信念を、真剣に吟味してみようとすること」である。あらゆる信念はすべて改訂される可能性をもつのだ。そして「信念」、「懐疑」、「改訂」された信念のサイクルの果てに何か正しい真理なるものがあるのかもしれない。

『真理とは、理想的な探求の無際限な継続の果てに見出だされるであろう、最終的な信念の収束点のことである。』(チャールズ パース)

学問的視点で言えば、理想的な探求の継続なしに真理にはたどり着けないという、この意見に僕は賛成だ。医学・薬学領域では継続して原著論文を読み続ける中で、現在の常識という信念に常に懐疑を投げかける視点こそ肝要である。情報は常に暫定的であり、最新の情報が常に正しいとは限らない。情報が更新されることと最新の情報を得ることは全く別問題である。更新され続ける、その進行形の中に真理への道が垣間見えるだろう。ただこれはあくまで学問的視点に立ってという事である。事実の追及の果てに人個々が抱く真理と言う信念が存在するのであれば、これほど複雑な事態にはならない。

〔信じようとする意志は個にとっての権利である〕

ところで、信念形成、つまり信じようとする意志は人の権利であるともいえる。行為に赴くために抱くさまざまな信念に十分な事実的根拠がなくとも、それは個人の価値という視点で否定されることはない。もちろん社会的、公共的見地から否定されることはありうる。人を殺しても良いという信念は現代の日本社会では権利として認められないであろう。しかし、文化的背景が異なれば一部では根拠なしに人を殺傷することが正当化されるという事もありうる。

まあ、これはしかし、極端な例だが、例えば十分な医学的根拠がなくとも保険適応があれば医薬品は処方できるし、患者にとってみれば、科学的根拠があるなしに関わらず、その医薬品に効果があると信念を持つことは権利であり、その権利を誰かに侵害されるようなものではない。根拠が不十分であっても、なにかを信じようとすることは、場合によっては、とてつもなく大きな意味をもつ。

医療においては、事実と価値を学問的には峻別すべきだが、実践的な観点からすると、その境界を曖昧にとらえていく必要がある。つまり「事実」と「価値」は連続的な概念である、という事だ。事実と価値観の一致を見る場合、見ない場合、どちらにしても個にとっては真理と言える。どういうか…。

僕たちが感受する経験的世界観はデカルトの言うような自我と自我の外なる世界の関係性のうちにある訳じゃない。客観とか主観とか、そんな世界観ではなく、僕たちに直接与えられている現象であり、純粋経験である。この経験的世界観においては、事実と価値の峻別も、あまり大きな意味を持たない。

つまり懐疑不能な学としての知識の獲得のみが価値観を形成している訳じゃない。懐疑をある程度残したとしても、現実的にその必要性がなければ、保証つきの言明可能性の獲得として価値観が形成される。ここに「事実」と 「価値」の二分法崩壊を垣間見る。

〔高齢者におけるベンゾジアゼピンの漫然使用〕

ベンゾジアゼピン系薬剤」「高齢者」の2単語だけでも、何か邪悪なイメージがあるのではないか。それに「漫然」と続けば、それは「悪」以外の何物でもない印象を植え付ける。だが僕たち医療者のそういった信念と実際に患者に起きている現象には案外ギャップがあるとは言えまいか?信念には常に懐疑可能性が付きまとう。

確かにベンゾジアゼピン系薬剤には様々なリスクが報告されている。特に死亡リスク上昇を示唆した文献があることは注目に値する。[2][3][4] しかしながら高齢者に限定した解析を行うと死亡に関するリスクはそれほど明確ではない。[5] 余命が少ない中で、ベンゾジアゼピン系薬剤と死亡リスクの因果関係を示すのは相当困難であり、裏を返せば、その余命に与えるインパクトは僕たちが想像するより小さいかもしれない。

ベンゾジアゼピン系薬剤を飲み続けるとボケが増えるのか、つまり認知症リスクはどうなのかと言う問題があるが、これについては複数の研究でリスクが増える可能性が示唆されている。(図1)

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(図1)PLoS One. 2015 May 27;10(5):e0127836.PMID: 26016483より引用

統計的有意な差、と言う観点ではわりと明確であるが、リスクの程度はそれほど大きいものではない。[6][7][8] ただ累積使用期間との相関がみられるので漫然使用は軽視できないものはある。(図2)

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(図2)BMJ. 2012 Sep 27;345:e6231.PMID: 23045258より引用

当然ながら骨折・転倒リスクは多い。[9][10][11] ただこちらも相対危険はそれほど大きな数値ではない。海外文献という事もありその外的妥当性については議論の余地もあろうが、僕たちが形成している信念と実際の現象にはギャップがあるという見方もできる。

一方で確かにベンゾジアゼピンは総睡眠時間を延長することが示されている。60歳以上の高齢者を対象としたメタ分析では総睡眠時間25.2分[95%信頼区間12.8~37.8]延長することが示されている。ただしこれは9週以内の短期的な効果であり、長期的な実効性はよく分からない。付け加えればこのメタ分析では記憶障害4.78 倍[95%信頼区間1.47~15.47]、日中の倦怠感3.82 倍[ 95%信頼区間1.88~7.80]など有害事象増加が示されている。[12]

ベンゾジアゼピン系漫然投与は悪か〕

在宅の現場では患者アドヒアランス低下に伴う残薬問題が注目されているように思える。その残薬を減らすために様々な服薬支援が行われているであろうと推測する[13] これは医療者が抱く信念をあらためて考えると興味深い。例えば降圧薬や糖尿病薬はしっかり飲んだほうが良いという信念があるのに対して、ベンゾジアゼピンはできれば服用しない方が良いという信念の存在を明確に否定できるであろうか。

2剤以上の降圧薬を服用している虚弱高齢者においては収縮期血圧が130mmHg未満となれば死亡リスクが増加する。[14]また罹病歴の長い糖尿病患者においてはHbA1cが7.5~8.0%で一番死亡リスクが低い。[15]  残薬をなくすよう、低下したアドヒアランス改善のために、服薬支援を行い、しっかり薬を飲ませた結果、収縮期血圧が150mmHgから120mmHgへ、HbA1cが8.0%から6.0%へ下がったとしよう。常識的な医療者の信念からすれば、これは素晴らしい取り組みとして評価されるかもしれない。しかし、実際に起きている現象はベンゾジアゼピン系薬剤の漫然投与を推進することとそう大きくは変わらないだろう。どちらが正しいということはない。僕がここで述べたいのは、信念の形成が一定の割合で価値に依存しており、ここでは事実がその信念形成に寄与する割合が少ないという事だ。

〔事実と価値を共有する〕

タバコの害をいくら強調したところで、喫煙しか生きがいが無いのであれば、禁煙を推奨することは、その人にとって生きる価値の一つを奪うことになる。医療は価値交換の場だ。リスクとベネフィット、そのバランスは一義的に規定できないのだ。良く寝つけること、そこに大きな価値を見出しているのであれば、たとえベンゾジアゼピンの長期的な効果が不明で、有害事象リスクの懸念があるにせよ、その患者にとって、ベンゾジアゼピンの漫然使用は決してネガティブな意味を持たない。[16] 患者の信念形成にも価値と事実この2つが影響している。つまり、人が何か行為に至る、その意志は、事実と価値という2つの要素の微妙なバランスの上で成立する。本来どちらか一方だけが影響しているわけじゃない。

しかしながら事実を全く知ることなしに意志することは、何かの行動判断のよりどころとして常に価値観のみに依存してしまう。事実を知り価値観を共有すること。大事なのはそういうことではないか。ベンゾジアゼピン系薬剤を漫然と飲むことが悪なのではない。実証された事実をシェアしないことこそ悪である。また、患者の価値を否定し、事実を押し付ける事こそが悪である。事実と価値のシェア、これはっ概念的にはshared decision making[17]に近い。(図3)

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(図3)JAMA. 2014;312(13):1295-1296. PMID: 25268434より引用

医療者と患者、双方の事実と価値を共有するプロセスこそ肝要なのだ。

〔参考文献/脚注〕

[1] チャールズ・サンダース・パース(1839年- 1914年)論理学、数学、哲学、記号論、およびプラグマティズムを創始したことで高い評価を受けたアメリカの哲学者

[2]  Weich S.et.al. Effect of anxiolytic and hypnotic drug prescriptions on mortality hazards: retrospective cohort study.BMJ. 2014 Mar 19;348:g1996. PMID: 24647164

[3] Kripke DF.et.al. Hypnotics' association with mortality or cancer: a matched cohort study. BMJ Open. 2012 Feb 27;2(1):e000850.PMID: 22371848

[4] Parsaik AK.et.al. Mortality associated with anxiolytic and hypnotic drugs-A systematic review and meta-analysis. Aust N Z J Psychiatry. 2015 Nov 20.[Epub ahead of print]PMID: 26590022

[5] Jaussent I.et.al. Hypnotics and mortality in an elderly general population: a 12-year prospective study. BMC Med. 2013 Sep 26;11:212.PMID: 24070457

[6] Billioti de Gage S.et.al. Benzodiazepine use and risk of dementia: prospective population based study. BMJ. 2012 Sep 27;345:e6231.PMID: 23045258

[7] Billioti de Gage S.et.al. Benzodiazepine use and risk of Alzheimer's disease: case-control study. BMJ. 2014 Sep 9;349:g5205 PMID: 25208536

[8] Zhong G.et.al. Association between Benzodiazepine Use and Dementia: A Meta-Analysis. PLoS One. 2015 May 27;10(5):e0127836.PMID: 26016483

[9] Zint K.et.al. Impact of drug interactions, dosage, and duration of therapy on the risk of hip fracture associated with benzodiazepine use in older adults. Pharmacoepidemiol Drug Saf. 2010 Dec;19(12):1248-55..PMID: 20931664

[10] Xing D.et,al. Association between use of benzodiazepines and risk of fractures: a meta-analysis.Osteoporos Int. 2014 Jan;25(1):105-20PMID: 24013517

[11] Woolcott JC.et.al. Meta-analysis of the impact of 9 medication classes on falls in elderly persons. Arch Intern Med. 2009 Nov 23;169(21):1952-60.PMID:19933955〕

[12]BMJ. 2005 PMID: 16284208〕

[13] 日本薬剤師会学術大会のポスター発表を見る限りにおいては

[14] Benetos A.et.al. Treatment With Multiple Blood Pressure Medications, Achieved Blood Pressure, and Mortality in Older Nursing Home Residents: The PARTAGE Study. JAMA Intern Med. 2015 Jun;175(6):989-95. PMID: 25685919

[15] Currie CJ.et.al. Survival as a function of HbA(1c) in people with type 2 diabetes: a retrospective cohort study. Lancet. 2010 Feb 6;375(9713):481-9. PMID: 20110121

[16] それを公的な医療財源で賄うことが正しいかどうかは議論の余地があるかもしれない。確かにタバコは自費であり、さらに税金まで払っているわけだから。しかしながら、薬を飲むよう、そのきっかけを与えたのは、僕たち医療者ではなかったか?

[17] Hoffmann TC.et.al. The connection between evidence-based medicine and shared decision making.JAMA. 2014;312(13):1295-1296. PMID: 25268434