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自由の探究-ジョン・スチュアート・ミル自由論-

カントに引き続き…。

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今回はミルの自由論を読んでみた。イギリスの功利主義者ジェレミー・ベンサムの盟友ジェームズ・ミルの息子であるジョン・スチュアート・ミル。教科書的には質的功利主義を提唱した哲学者・経済学者というイメージ。

「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。 同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。 そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。」は主著功利主義からの引用だが、今回は自由論を取り上げる。なお引用は光文社古典新訳文庫から斉藤悦則さんの訳である。大変読みやすいので、是非お勧めしたい一冊である。

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基本的人権の尊重】

ミルのいう自由とはなにか。彼が自由論で述べたことは、現代日本人の感覚からすると、それが実現されているかどうかは別として、大きな違和感はない。“社会全体としての幸福が実現されるために、個人としての自由は、他者の自由を損なわない限りにおいて、尊重されねばならない”というのが、その根幹の思想である。これは日本国憲法の第十三条にも明記されている基本的人権の尊重に他ならない。

日本国憲法第13条】『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。』

個人の価値観は、集団の価値観と相いれないことも多々ある。いわゆる信念対立と呼ばれるものだが、ミルは他者の価値観を否定し、抑圧するよりも、お互いにその価値観を認めあうことの方が大事だと述べる。

【引用】『人が良いと思う生き方をほかの人に強制するよりも、それぞれの好きな生き方を互いに認め合うほうが、人類にとって、はるかに有益なのである』

本当にそう思うのが、それができないのが人間の愚かさではある。しかし、このことは何よりも大切なことである。信念対立が原因で、人間は過去に多くの過ち犯してきたことは今更強調するまでもない。

【引用】『一人の人間を除いて、全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。』

【多様であることがもたらす、より良い社会】

自分が正しいと確信している世界観は偶然に左右されるとジョン・スチュアート・ミルは言う。例えば北京で生まれていれば仏教を信仰していたであろうし、ロンドンで生まれればイギリス国教会の信者となったであろう。「時代」についても同じことが言える。たまたまその時代に生まれたからこそ、正しいと確信できたイデオロギーも、のちの時代に大きく否定されることは歴史上、多々あることだ。ちなみに科学史において科学の発展過程におけるこのようなイデオロギーの転換をトマス・クーンはパラダイムシフトと呼んだ。

【引用】『自分の意見に反駁、反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自由の行動の指針として正しいと言えるための絶対的な条件なのである。』

【引用】『知的な平和を保つために支払う代償は、人間の知性の道徳的な勇気をすっかり犠牲にすることなのだ』

言論の自由がなければ、大胆に思考する気風が失われる。このようなアンチテーゼとテーゼの弁証法止揚ヘーゲルの思想と通じるものがある。

【引用】『自分の頭で考えず、世間に合わせているだけの人の正しい意見よりも、ちゃんと研究し準備して、自分の頭で考え抜いた人の間違った意見のほうが、真理への貢献度は大きい』

【引用】『どんなに正しい意見でも、十分に、たびたび、そして大胆に議論されることがないならば、人はそれを生きた真理としてではなく、死んだドグマとして抱いているにすぎない』

つまり“思想の自由”の本質は何も偉大な思想家を生み出すための条件ではない。一般的な普通の市民の成熟ために必要なことなのである。

【引用】『知性の力を育てる重要な要素があるとすれば、それはまちがいなく、自分なりの意見を支える根拠を学んでいくことである。』

【引用】『自由を伴わない教養はけっして度量の大きいリベラルな人間を育てない』

【引用】『簡単にわかるようなものでない問題については、一般に流布している意見がしばしば正しいけれども、それが真理の全体であることは、めったに、というか、絶対にない。あくまでも真理の一部にすぎない。』

ミルは意見の多様性を重視する。思想と言論の自由を担保するには意見の多様性が必要であるというわけだ。

【引用】『人間の知性の現状において、真理のすべての面が公平に扱われる機会は、ただ意見が多様であることによってのみ得られる』

しかし、現実はなかなか難しい。常識的価値観に対するアンチテーゼを述べるとしばしば人は非難されるし、常識に従わない態度は“非常識”と言われることもある。

【引用】『「誰もしないこと」をすると、あるいは「誰もがすること」をしないと、人は非難される』

多様性を擁護するとは、差異を否定的ではなく、肯定的に捉える事である。

【引用】『差異が存在するということは、たとえ社会の改善につながらなくても、あるいはむしろ悪化につながるもののように見えるとしても、それでもやはり大事なことなのだとわかってもらわなければならない。』

【幸福追求原理に基づく自由の概念】

さて、ここまで来るとミルは自由主義者という印象で、政治、経済における多元主義を主張している。教科書的にも古典的自由主義者に分類されえることも多いわけだが、僕は基本的にはその原理に同意する。様々な選択肢が肯定的に捉えられるという生き方を僕は「自由」と考える。ただ、ミルの言う自由とは功利主義的観点からの自由という側面も持つ。

【引用】『個人の行為のうち一部分でも、他人の利益を害することがあれば、すぐさま社会はそれを裁く権利を持つ。そして、そうした社会による干渉がちゃんと全体の幸福増進につながるかどうかの問題が、広く議論の対象になる』

自由論ではベンサムの引用もないし、明確に功利主義的概念が強調されているわけではないが、後半の随所にミルの功利主義的な観点がかいまみえる。この功利主義観点は「結果のいかんに問わず、行動する意志の原理こそ肝要」とするカントの自由論と、全く異なる点だ。社会に与える非道徳的悪影響は個人の自由に一定の制限をかす。ミルの言う自由の根幹には市民社会の幸福追及原理が存在するのだ。ミルは自由の原理として以下の2つを公理として定式化している。

引用】『個人は、自分の行動が自分以外の誰の利害にも関係しない限り、社会に対して責任を追わない。』

【引用】『個人は、他の人々の利益を損なうような行動をとったならば、社会に対して責任を負う』

他者に害悪を加えないという前提においての個人の自由を主張するミルは、自由経済の考え方を擁護する。

【引用】『商売に対する制約、ないし商売を目的とした生産に対する制約は、確かに束縛であり、束縛は全て、束縛であるがゆえに悪である』

ミルが重視しているのは、個人の行動の結果が、社会的にどのような影響を与えるか、という観点での自由なのだ。カントはある行為に道徳性がうまれるのは、どのような意図が実現されるかによってではなく、その行為を支える格率=行動原理だと主張した。だから自殺も許されない。ミルのいう自由の概念では、他の人々の利益さえ損ねなければ、自殺する自由も権利として有するということになる。ミルは“一般的な功利を損なっていないような行為を抑制することは不当である”と述べているにすぎないからだ。カントの言う自由のようにその原理が普遍的に妥当するかどうかはさしあたって重視されていない。

【何が正しいことなのかわからないからこそ多様であり、自由なのだ】

ミルは教育問題にも言及している。

【引用】『人間には個性が大事であり、意見や行動様式の多様性も大事であるが、それに連なって、教育の多様性も言葉で表現しきれないぐらい大事なものである。』

国が教育全体を管理することは、国民のすべてをひとつの鋳型にはあてはめようとする企てに他ならないとミルは主張する。一部には同意するが、全面的にはどうか。僕はなにか違うような気もしている。人は何を学べば良いか、ということを、あらかじめ分かる、というような仕方で存在しない。教育の多様性は大事だ。しかし、教育に消費者マインドは原理的に妥当しない。自らが自由に教育コンテンツを選ぶことができるほど人間が優秀ならば、そもそも教育は不要だろう。何がより良い教育コンテンツなのか、学習者は本来なにもわからないからこそ、教育の在り方に市場原理はなじまないと思うのだ。

自由という定義の仕方で、どんな自由も自由として許されるのならば、その社会は個人にとっては良くも悪くもなるかもしれない。ミルが定義する自由は人々がより幸福に生きるための自由とは何かを追求した点で、現代社会にも大変説得力のある思想である。多様な生き方を肯定するその考え方は、僕自身が現段階で定義する自由と基本的には同じだ。

ただ、僕は自由な生き方において、あらかじめどのような「効用」が想定しうるか、と言う問題をあまり重視しないのである。多様性がもたらすのは、「効用」というよりはむしろ「生きやすさ」につながるものではないだろうか。教育コンテンツにどのような効用があるか、医療介入にどのような効用があるのか、あらかじめ分からないからこそ、僕たちの判断は多様であり得るのではないだろうか。

言葉を選んだ瞬間に僕たちは多くの考え方、見方を失う。多様であるということは多くの言葉を受け入れること。決定しないから、あるいは決定できないからこそ、そこに多様性が広がっているのだ。あらかじめ決定された自由は何か大事なことを見失っている気がする。

この点について、さらなる探求が必要であろう。現時点での結論は控えたい。この後はルソー、ロールズ、サンデルらの思想をめぐる冒険に出てみたいと思う。