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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬剤効果の認識論的転回~薬剤効果の反実在論~

言語論的転回はコトバが思考を表出するのではなく、思考はコトバに規定されてしまうということを明らかにした。つまり、コトバがなければ思考も存在しないのだ。僕たちの目の前に広がる世界は、そういった意味では決して自由な仕方で存在しない。

カントの言う<物自体>の存在を否定するのであれば、認識とはある意味で、宗教と本質的には同じだ。信仰の度合においてそこに明確な違いはない。知識も所詮は世界-内-存在の中に浮遊する情報により編み上げられた信念に他ならず、その確信の度合いは信仰心に依存する。いうなれば、非科学信仰も科学信仰も基本的には構造がおなじなのだ。だからなぜ非科学信仰がはびこるのか、という問いは、なぜ科学信仰がはびこるのか、と同義である。

後に見るように、薬の効果なるものはいわば<物自体>みたいなもので、僕たちはそれをコトバで切り取った世界として解釈しているに過ぎない。薬の効果は存在するかもしれないが、僕たちはそれを現象として認識するのみである。

〔薬剤効果自体〕

薬の(予防的)効果を思考するというのは、未来における人への薬剤の影響を予期、期待するということに他ならないが、思考、あるいは想像とは独立に<未来自体>を想定できないだろう。薬の効果の実態なるものが<物自体>として、つまり<薬剤効果自体>として、存在することは否定できないけれども、僕たちは<薬剤効果自体>には決して触れることができないのだ。

ここであらためて強調しよう。薬剤効果の認識は常に暫定的であり、本質的に不確定要素を含んでいる。したがって、薬剤効果の認識は時間の中で絶えず『生成』と『消滅』を繰り返しているのであり、原理的に未完結であると言わざるを得ない。これはもちろん、薬剤効果における反実在論を主張する立場である。

〔構成的薬剤効果認識〕

現段階で認識しうる薬剤効果はコトバによる反復可能性により支えられており、その認識は解釈学的再構成及び間主観的構成の所産にすぎない。

共時的な反復可能性と通時的な反復可能性とが共に意味形成の過程に参与することによって、幾何学的対象の理念的客観性が構成される』(野家啓一 物語の哲学)

薬剤効果の意味形成過程において、共時的な反復可能性と通時的な反復可能性は、いわゆる科学理論や疫学的、統計学的記述にも当てはまるだろう。客観性はアプリオリに自存する真理に支えられているわけではない。それは間主観性によって担保されている。疫学的根拠、つまり臨床医学論文が示す統計的な記述とて<薬剤効果自体>を示すものではないのだ。

病態生理や薬理学理論が仮説にすぎないと言うけれども、疫学的根拠でさえも<薬剤効果自体>を統計というコトバで切り取ったものであり、それは認識可能な<薬剤効果の現象>なのだと言える。薬の効果を記述するという行為は、記述手法、例えば統計や科学理論などの文脈負荷的な要素が大きく、薬の効果そのものの実態を記述したものではない。

『意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自身が遠近法的秩序のなかで情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである。』(野家啓一 物語の哲学)

コトバは思考を規定する。そもそも薬剤効果をコトバで記述する限りは関心相関的なバイアスが多分に負荷されていると言わざるを得ない。厳格なクライテリアのもと、網羅的なエビデンスレビューを行い、中立的な価値観で薬剤効果を記述するシステマティックレビュー論文ですら、その結論はレビューアー自身が抱く好意的な結論に傾きやすい。(Lieb K.et.al.2016 PMID: 27118287)

 〔誤りうると言うこと〕

どんなに臨床医学論文を読んだとしても、どんなに薬理学理論を学んだとしても、僕たちにはそこから記述される薬剤効果が真に正しいのか、正しくないか、判断することはできない。僕たちはいつでも結論できない立場にあるということを知るべきだ。つまり薬剤効果に関わる臨床判断は常に暫定的なのだということ。そして正しい臨床判断など存在しないと言うこと。

『その場で考えられ、語られ、受けとめられる思想は、誤りうる。もし、思想の意味と価値が誤らないこと、常に正しいことにおかれるとしたら、どう考えてもこの同時期の思想よりは、後で語られる他ないにしても誤らない事後の思想のほうがよいことになる。しかし、こう考える時、わたし達の中に、一抹の失望が生まれるのはなぜだろう。わたし達のなかに、たとえ誤りうるとしても、同時期に発生する思想のなかに、何か大切なものがあるという感じが生じるのはなぜだろう』(加藤典洋 敗戦後論

生きた、誤りうる臨床判断に賭ける。何が正しいかわからないからこそ、もっと向き合えるのではないか。すべてが自明であるのなら、そのテーマは問題提起されることもないだろう。誤ることを含めて、全体としてどういった方向に進むのか、大事なのはそういったようなことの気がする。