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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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[書評的な何か]人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか~アンドロイドと心の存在論的考察~

[人間の機械化]

人間の機械化というのは、何もSFの話だけではない。語弊を恐れずに言えば、現代医療において、生体組織の機械化というものは治療の一部として既に受け入れられているのではないか。「機械化」とう言葉に違和感があるのかもしれない。それは、SF好きな僕ら世代であれば、“人間の機械化”という言葉に、どうしても士郎正宗さんの攻殻機動隊を重ねてしまうからかもしれない。[1]

想像してみてほしい、一人の寝たきり高齢者を。

末期の慢性閉塞性肺疾患のため、呼吸機能が極めて低下し、人工呼吸器を装着しないと自発的な呼吸ができない状態。また10年を超える糖尿病歴のため、末梢の毛細血管は循環器系としての機能を失いつつあり、既に左足は大腿部分より切断されている。数年前に大腿骨頚部骨折をおこしたことにより、右足大腿骨骨頭は人口骨頭に置き換えられている。さらに心臓にはペースメーカーが埋め込まれており、心収縮の自律性をかろうじて維持している状態。脳梗塞後の広範囲にわたる脳組織損傷及び血管認知症のため理解能力は極度に低下。嚥下能力も残されておらず、胃瘻により生体駆動に必要なエネルギーを取得している。

現代医療の現場において、人と機械の境界を明確に定めることは難しいところまで来ているとは言えないだろうか。人として死にゆくのか、それとも…。今後数十年先、いや数年先かもしれないが、“人の機械化”はさらに進んでいくだろう。人間の進化を「生物学的な進化」と「技術的な進化」に分けるとするならば、ここ数百年においては後者による進化が急速に進んでいることは間違えない。人間の機械化、その果てに、人間組織の何を残せば機械(アンドロイド)ではなく人といえるのだろうか。人間の肉体から生体組織を限りなく取り除く、あるいはそれを機械化した際に、人が人たりうることを規定する最低限のなにか[2]…それこそが僕たちが「心」と呼ぶものかもしれない。

[機械に心は宿るのか]

さて、“機械に心は宿るのか”僕がこのテーマに傾倒したのはつい先日、インフルエンザで寝込んだことが原因である。昨年8月に公開された新海誠さんの監督作品『君の名は』が、『千と千尋の神隠し』を抜いて、日本アニメとして史上最高の興行収入を記録したらしい。僕と言えば、この映画を未だ見ておらず、昨年買っておいた小説版も積読状態であり、今のところ読み始める予定もない。

そんな新海さんの監督作品との出会いは、おそらく3年前のこの時期、やはりインフルエンザで寝込んだ時であったかと思う。家族にインフルエンザウイルスをまき散らすわけにもいかず、自室にこもり、ずっと寝ていたが、じきに時間を持て余し、『秒速5センチメートル』という、相当程度、切ない映画を見たことに端を発する。それまでアニメーション作品はドラえもんジブリくらいしか見ない人間であったが、この映画の切なさには何かしらの大きな衝撃があったらしい。。。映像のクオリティとか、音楽とか、まあ、いろいろあるけれども、「せつない物語」と言うのは、僕を魅了する大きなファクターであるようだ。

前置きが長くなってしまった。大事なのは新海さんの映画ではない。先日のインフルエンザでも当然ながら時間を持て余してしまった。常に仕事に追われていた毎日だけに、ポカンとあいた時間の空隙に対して、僕はいつのまにか「せつない物語」を探していた。

そこで出会ったのが『プラスティック・メモリーズ』(Plastic Memories)という作品である。2015年4月より6月まで放送されたテレビアニメーション作品であるが、これはアキバ的、オタク性の強い傾向にあるアニメ作品ではないか、というのが最初のインプレッションではあった。[3]

www.plastic-memories.jp

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しかし、あまりにも暇な時間は、アニメのオタク性あるいはアキバ性という、僕にとっては一種の緊張感をまとう壁のようなものを軽々と越えていったように思われる。

端的に言うとこの物語は大学受験に失敗した水柿ツカサという少年と、ヒロインのアイラという少女のベタな恋物語である。ただ、ベタな恋物語では割り切れないところが一点存在する。それはアイラという少女は人間ではなく、人間と見分けはつかないがアンドロイド(本作品ではギフティアと呼ばれる)である、という点である。

本作品において、物語の背景的設定はかなり甘く、おそらくSFとしては二流な作品である感じは否めない。しかし本作品を見て強烈に残るのは「せつない思い」である。何がせつなさを残すのか、それはこの物語に登場するアンドロイド、ギフティアに“心”が実装されているということと、ギフティアの耐用年数に限りがあるということである。

[人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか]

アンドロイドに心は宿るのか、そんなこんなで僕はこのテーマに行き着いた。アンドロイド研究と言えば、阪大の石黒浩さんが有名だが、昨年末に出版された、人工生命研究の第一人者、池上高志さんとの共著による本「人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか」を読んでみた。

人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか

あまりに面白くて一気に読んでしまったのだが、冒頭、石黒さんの印象に残ったセンテンスを引用してみよう。

『人間の機能の技術への置き換えは、人間をモデル化することによる人間理論であると同時に、消去法的な人間理解の方法でもある。』
(人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか p25)

『そもそも技術とは、人間の能力を機械に置き換えてゆくことである』
(人間と機械のあいだ 心はどこにあるのかp36)

『「心」とは社会的な相互作用に宿る主観的な現象なのかもしれない』
(人間と機械のあいだ 心はどこにあるのかp54)

石黒さんは「心」というものをどちらかといえば認識論的にとらえているような気がする。平田オリザさんと石黒さんのコラボ作品であるロボット演劇において、舞台で演じているアンドロイドに心を見いだすのは観客の認識である、というような捉え方をされていることからも、存在論的な心についてはあまり言及されていないように思われる。確かに心を認識論ではなく、存在論的に定義することは難しいかもしれない。

心の哲学者あるいは脳科学者でもあるダニエル デネットの一言には心を存在論的に捉えることがいかに困難かを思い知らされる

『わたしたちは犬が心を持つことはかなり確かだと信じているけれども、牡蠣に心があるかどうかについては疑わしいと思っている』
ダニエル デネット 心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫) p17

心はどこにあるのか (ちくま学芸文庫)

[心とは何か]

“心の在りか”を考えたとき、どんな種類の生物(あるいは機械)に心を持ち得るか、という問いに対して、存在論的な回答は、明確な形では与えられないのかもしれない。犬には確かに感じとれる心でも、ハムスターならどうか、あるいは昆虫、草木、バクテリア…僕たちはその境界をアプリオリに規定できない。となればやはり心は認識論的なものなのだろうか。

アンドロイドに心が宿っているのか、それは受け手の人間の問題、という主張は確かにわかりやすいかもしれない。しかし、例えば近未来において、子供を亡くした母親が、子供そっくりのアンドロイドを購入し、ともに生活を開始したという設定を想像してみてほしい。

母親にとってこのアンドロイドは子供同然の存在であり、平穏な日々が戻りつつあったところに、突然家に侵入してきた強盗数人に襲われてしまう・・・。子供型のアンドロイドは、(母親である)女性を守るため、強盗に立ち向かう。しかし、強盗たちによって、逆に叩きのめされてしまう状況を前に、(母親である)女性は強盗に向け銃を発砲。強盗たちは全員死亡した。

はたして、この女性は正当防衛といるのか、それともただの殺人なのか。自分のパソコンが故意に壊されたからと言って、壊した人を殺害することは許されないだろう。では子供型アンドロイドを破壊した場合はどうなのか。この思考実験では機械においても心の在りかが存在論的に問われているとは言えないだろうか。

僕は心を認識論的なものととらえるのはやや危険な気がしてしまう。“人たらしめる基準”が社会から要請されるものであることはおそらく間違えない。しかし、「アメーバにも心があるのだから」という社会が構築されるのなら、アメーバ保護のためにきっと何かが犠牲になるだろう。このことは妊娠中絶をめぐる議論においてより深刻な事態を招くように思われる。はたして胎児はいつから心をもつのだろうか…。

心がどこにあるのか、という問いは生命とは何かという根元的な問いと不可分であるように思われる。舞台で演じているアンドロイドに心を見いだすのは観客の認識である、というような石黒さんの主張は心の存在論を議論する上でやや短絡的とは言えまいか。

冒頭紹介した“機械化された”高齢患者を思い出してほしい。この人が、かすかに顔の表情を動かし、笑顔を作ったとしたら…。言葉も発せず、理解というような認識もないかもしれない。それでも微笑んだとしたら…。人はそこに心の存在を確信するだろう。認識論的ではなく、存在論的に。

不安、曖昧性、あるいは懐疑。それを解消し、他者に安堵を与える力、それを僕は心と呼びたい。そしてその力はきっと、機械にも宿ると僕は思う。

 

・・・約9年の耐用年数を過ぎてしまったギフティアは回収され処分される。

『幸せな思い出や、きれいな思い出が救いになるとは限らない。思い出がきれいなほど、辛くなることもある。怖くなることもある。去っていく方にとっても、残される方にとっても』(プラスティック・メモリーズ第5話)

それでも思い出を欲するのが心ではないか。記憶の中で時間と言う概念は無いのだから、心にとってそれは永遠であろう。

[注釈]

[1] というのは僕だけかもしれないが。

[2] 攻殻機動隊の文脈で言えば、それは「ゴースト」だ。

[3] 誤解を招くといけないのだが、僕はアキバ系だろうがオタクだろうが、これは素晴らしい文化だと思っている。オタク性というのは実に興味深いテーマである。ただ、僕にとってはこの領域に踏み込むにはそれなりの心構えと言うか、ある種の緊張感が伴うが故の壁なのだと言える。

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