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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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『不在の哲学』~薬剤効果の実在と不在について~

中島義道さんの「不在の哲学」(ちくま学芸文庫)を読んだ。

不在の哲学 (ちくま学芸文庫)

なんと、文庫本のための書き下ろしだそうだ。本書は客観的・統一的な脱自己中心的世界としての「実在」ではなく、対立概念である「不在」こそが「真にあること」ではないかという問題を取り扱う壮大な思索をまとめた本格的な哲学書である。カントの認識論から、マクタガートフッサールの時間論まで、その射程は広い。

人はコトバを学ぶと、唯一の視点から見た世界を要求するようになり、自己と他者を等価に見ることができるような、いわば全能者的視点が与えられていないことを不思議に思う。大脳の存在を不思議に思うのではなく、その大脳に宿るであろう心の存在を不思議に思う。自然法則の存在を不思議に思うのではなく、それに従わない現象に違和感を覚える。中島義道さんの言葉を借りれば、『多元的事実に対する疑念は、同時に多元的事実を承認することの拒絶という感情に裏打ちされている』

僕たちは人は実在を不思議に思うのではなく、実在からはみ出した不在にこそ関心を向けるのだ。

しかし、薬剤効果を考えたとき、必ずし同じような関心の眼差しが向けられるわけではないように思われる。むしろ、薬剤効果の実在に対して関心を向けることが多く、不在に関してはそもそも関心がないことの方が多い。

『薬の効果』というのも存在論的なものではなく認識論的なもの、つまり実在からはみ出した不在にこそ関心を向けるという仕方が、案外、肝要なのではないかと思う。

『われわれが陥りやすい大いなる錯覚は、〈いま〉眼前の知覚風景を構成する物体には、はじめから「意味」がこびりついているとみなすことである。だが、見上げる空間はもともと「青い」わけではなく、眼の前には「池」があるわけではなく、私が腰掛けているのは「ベンチ」ではない』不在の哲学p70

見上げた空がもともと青いわけではなくて、それは青という意味を付与していることに過ぎない。薬の「効果」というものについて考えてみれば、それはあらかじめどこかに実在しているような存在論的な仕方ではなく、薬に効くという「意味」を付与している、いわば認識論的な側面がある。

そこには人の関心に応じて切り取られた世界像というものが確かにある。それは無限のパースペクティブを有するし、薬剤効果という世界の複数性を支える源泉だろう。ある人には効果があったけれど、ある人には効果がなかったというように。

 『客観的世界には、一定の構造を有する物質の様々な魂が取り残される。それはある人が知覚すれば一定の姿を現すような何かであり、ある人が意味を付与すれば一定の意味を担うような何かである。カントの用語を使えば「実在的可能性」を持つ何かである。』中島義道 不在の哲学p16

『物理学的世界とは過去を普遍化した世界なのであるから、「客観的世界がそれ自体として実在するか」という問いは、「客観的過去がそれ自体として実在するか」という問いにほからない』中島義道 不在の哲学 p284

コペルニクスにとって、静止する太陽を中心にそれを公転する惑星群の運動は実在であり、地球から見える火星の運動は現象である。こうした「二重の観点」を獲得すること、それが超越論的視点を獲得することにほからない』中島義道 不在の哲学 p301

ただし、カントは実在は観念であり、それを想定することで現象がうまく説明できるというわけでコペルニクス天文学的転回と哲学的転回は文字通りの同一性はないのだけれど……。ただ、薬剤効果の「理論」と「現象」。この二重の観点を獲得することこそが、薬剤効果にける超越論的視点の獲得にほからない。

 薬剤効果に関する記述は存在論的な薬剤効果の実在を浮き彫りにするのだけど、むしろ大事なのは、そこから取りこぼされた認識論的視点に垣間見る不在ではなかろうか。