思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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倫理学を学ぶ-動物からの倫理学入門-

 Overuseに代表されるような過剰医療という概念は、不必要な医療、あるいは無駄な医療という認識をより強固なものにしていきます。ポリファーマシーをめぐる問題など、近年こうした過剰医療に対する風当たりは強く[1]、実際、Choosing Wisely キャンペーン[2]などで、不要な治療に対する関心を高める取り組みも積極的になされています。

 もちろん有害無益な治療はなされるべきではありませんし、リスクが高くベネフィットが小さい治療も推奨されるべき事ではないのでしょう。ポリファーマシーや過剰診断が、社会的のみならず患者個人のレベルでも不利益をもたらすことは軽視できない問題です。

 

 ただ、こうした関心が高まるにつれて、無駄な治療や無益な治療が、まさしく過剰に強調されてしまうこともあり得るのではないかと思います。寿命の限られた高齢者に対して、見込まれるベネフィットは小さく、リスクの観点からもう治療は不要である、と判断すること。過剰医療という概念は、こうした臨床判断を積極的にせよとポジティブな仕方で要請してきます。

 しかし、あらためて考えてみると、治療の無益性とは一体なんでしょうか。どんな状態であれば治療する価値があって、どんな状態であれば治療する価値がないのか、その境界を明確に特定することは可能でしょうか? 言い換えれば、“希望を捨てずに治療しよう”という考えた方と、“もう先は短いので治療は不要”という考え方との境界はどこにあるのでしょうか。

 

 こうした問いかけに対して、『費用対効果分析に基づく医療給付制限の倫理的正当化』と題された示唆的な論文が「医学哲学 医学倫理」に掲載されています。

www.jstage.jst.go.jp

 「適切な医療を受ける個人的権利」と「医療資源の分配に関する社会的正義」の対立は、今や日本の公的医療保険制度のあり方そのものを問い直すほどの重大な問題を提起しています。

 

 薬剤使用における「適切」「不適切」について、あらためて考えてみると、そこにはなかなか厄介な問題が潜んでいます。例えば、『HbA1c6.0%の高齢者に対するDPP4阻害薬の投与』は適切と言えるでしょうか。あるいは『心臓病の既往がない高齢者に対するスタチン』はどうでしょう。『寝たきり高齢者に対するビスホスホネート剤』、あるいは『高齢者に対するベンゾジアゼピン系薬剤』はいかがでしょうか。

 つまるところ、文脈に応じて、様々な状況が想定できてしまい、こうした薬剤使用が適切なのか、不適切なのかを一律に規定することが難しいのです。あるいはこう言い換えても良いかもしれません。「適切」「不適切」は『種類』ではなく『程度』の問題であると。

 

 このように、薬剤使用をめぐる「適切」「不適切」という概念は、薬そのものの側にあるのではなく、僕たちの認識の側にあるのだという事ができます。薬剤の適正使用が極めて認識論的な問題だということは、事実判断と価値判断という観点からも示唆されます。

 物事の判断には「事実判断」と「価値判断」があります。例えば、「この鳥は青い」は事実判断ですが、「この鳥は美しい」は価値判断です。「この部屋の室温は10度である」は事実判断ですが、「この部屋は寒い」は価値判断です。

 薬の効果で考えれば、「この薬には副作用が知られている」は事実判断であっても「この薬は不適切である」は価値判断です。つまり、薬剤効果の適切性判断というのは事実判断ではなく、価値判断なのです。

 では、こうした適切性をどのように捉え、どのような基準に従って判断をしていけば良いのでしょうか。その問いに対する学問的アプローチの一つに倫理学があります。特に臨床を巡る価値判断に特化した倫理学分野を医療倫理学と呼んだりしますが、常識的規範に対して懐疑の視線を向け、あらためてその根拠を問い直し、道徳的に判断するとはどういう事かを考察する学問分野です。

 倫理学に関しては様々な本がありますけど、動物を題材として倫理について考えてみよう、というユニークな倫理学の入門書があります。

動物からの倫理学入門

 価値判断を巡る思想的立場には実に様々な考え方があり、その全てを理解することは一筋縄ではいきません。しかし、本書は、古典的功利主義から、シンガーの選考功利主義、カントの義務論、ロールズの正義論など、いわゆる「現代正義論」で取り上げられるテーマをシステマティックに解説しており、倫理学を学ぶための取っ掛かりとしては、非常に優れた書籍だと思います。

[脚注]

[1] Morgan DJ.et.al. 2016 Update on Medical Overuse: A Systematic Review. JAMA Intern Med. 2016 Nov 1;176(11):1687-1692. PMID: 27654002

[2]小泉 俊三. Choosing Wiselyキャンペーンについて. 日本内科学会雑誌. 105 巻 (2016) 12 号 p. 2441-2449. https://doi.org/10.2169/naika.105.2441