思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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あらゆる医療(言説)にはトンデモ性が含まれている

 先日、『あらゆる医療言説(あるいはそれに基づいた臨床判断、すなわち医療介入)にはトンデモ性が含まれている』と発言したら、批判的な意見も含め、様々なリアクションがあったので、ここで僕の考えを少し整理しておきたいと思います。なお、『医療にはトンデモ性が含まれている』という僕の考えの素地はnoteにメモしてあります。

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 『医療にはトンデモ性が含まれている』に対する批判的意見

b.hatena.ne.jp

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  『あらゆる医療にはトンデモ性が含まれている』というテーゼは、①トンデモ医療と標準医療の境界設定困難さと、②医療介入によりもたらされる効果(有効性であれ、安全性であれ)は理論的構成体である という2つの前提により支えられています。

 

【トンデモ医療と標準医療の境界設定困難さ】

 物事の真偽に対して明確な境界線を引くことは、医療に限らず様々な領域で困難だと考えています。そもそも「真の言明」とは何か、という問いに対して、客観的な基準を設定できない以上、それは人の恣意性に委ねられた線引き基準となるより他ないと考えています。このことは、ニセ医療と並んで批判を受けることも多い、ニセ科学についてより分かりやすい議論が展開されています。

 科学と疑似科学”demarcation problem”は科学哲学のメインテーマであり、その議論も豊富です。カール ポパー反証主義などがその代表ではありますけど、結局のところ、科学と疑似科学の境界線を明確に設定することは困難であると考えて大きな誤りはないでしょう[1]

  こうした議論をトンデモ医療と標準医療の”demarcation problem”に拡張したのが僕の主張の中核です。例えば、『高齢者の心血管疾患一次予防にスタチンを使うべきか?』 『花粉症に小青龍湯は使うべきか?』 『風邪をひいたらビタミンCを摂取すべきか?』 『癌にはビタミンCを点滴すべきか?』 と考えていった時に、どこまでがトンデモ医療で、どこまでが標準医療と呼べるかという問題です。どこで線引きするか、とあらためて考えたときに、「明確にここだ」と指摘しづらいのではないか、というのが僕の考えなわけです。

 トンデモ性というのはある種のグラデーションを描いているように思われ、トンデモか、そうでないかというな議論よりも、あらゆる医療(言説)にはトンデモ性が少なからず含まれてると認めたうえで、じゃ、どの程度トンデモ性があるのだろう、と考える方が建設的ではないかと思います。『トンデモ』というのは、種類の差ではなく程度の差というのはまさにこのことです。

 

【介入効果が”ある”、と言うときの”ある”とは何か?】

 僕たちが生活しているこの世界には様々な存在があります。目の前を走る自動車や、グラウンドに転がっているサッカーボールなど、目で見ることができ、直接触ることができる存在から、素粒子など、目に見えないものまで様々です。僕が注目しているのは、目に見えない存在、つまり直接知覚できない存在です。原子や電子は目に見えず、直接知覚できないにも関わらず、僕らはその存在を確信している。なぜか?

  それは原子や電子が、物理学という科学理論によって間接的に存在の証拠が支えられているからです。こうした理論によりその存在の証拠が支えられているけれど、直接知覚することができない存在を理論的構成体(theorical construct)と呼びます。

  例えば『大学』なども理論的構成体と言えます。「東京大学は存在しない」なんてことはないわけですけど、じゃ、いったいどれが東京大学なのか指をさしてみて、と言われても、少し戸惑ってしまう。東京大学がある土地を指させばよいのか、それとも赤門を指させばよいのか、はたまた、本郷キャンパスに立ち並ぶ全ての建物を指示すればよいのか……。「大学」とは直接知覚できるような存在とは少し異なるのです。それは社会制度の枠組みの中で構成される組織的存在であって、知覚対象ではありません。

  さて、薬の効果がある、という時の「ある」はどうでしょう。それは手のひらに載せて、直接眺めることができるでしょうか。そんなことはないでしょう。薬剤効果は薬理学理論や疫学的・統計学的データ等によってその存在の証拠が支えられている理論的構成体と考えた方が良いように思います。

  繰り返しますが、理論的構成体は僕らが直接知覚できるものではありません。つまり、その存在に厳密な仕方でアクセスできないのです。薬剤効果や医療介入の効果そのもの自体を僕はカントの物自体にならって「効果自体」と呼ぶことがありますけど、人間は薬剤効果自体にはアクセスしようがありません。その効果の存在は、統計学や薬理学や薬物動態学などのから得られた知見、つまり間接的証拠によって支えられているにすぎないのです。

 そして、統計や疫学、薬理学などを使って解釈された薬剤効果は、薬剤効果自体そのものではありません。僕らが認識もしくは把握できる効果には、プラセボ効果が紛れているかもしれないし、研究デザイン上のバイアスがかかっている可能性もある。あるい交絡の影響や統計的過誤が発生している可能性もあるわけです。

 したがって、どれだけエビデンスレベルが高いからと言って、現象の厳密な因果性を直接的に認識することは不可能です。そういう意味で、客観的に正しい医療なんてものにはアクセスできない、つまり、あらゆる医療(言説)には程度の差はあれトンデモ性を含まざるを得ないと僕は考えるわけです。

 

【トンデモか、そうでないかという不毛な議論を超えるために】

 日経ドラックインフォメーションで取り上げている僕の連載コラムテーマを見ても、批判的コメントの射程が、いわゆるトンデモ医療とは対極にある記事にも及んでいることが分かると思います。

 ■薬の副作用でうつ病が増えるのか

■白米は本当に健康に悪いのか?

認知症“予備軍”を拾い上げる意義は

 また、明らかにトンデモ性が高いと思われる言説に対しては、専門知識云々のまえに、国語力でもそのトンデモ性を評価できるのではないか、ということで新たに連載も始めました。

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 ”『あらゆる医療にはトンデモ性が含まれている』というテーゼこそが端的” という批判も分からなくもないですけど、「トンデモ性を認めない」とする考えこそが、トンデモかそうでないか、という二元論を持ち出し、端的な結論に陥りやすいのではないかと思います。

 

【参考文献】

[1] 伊勢田 哲治,  疑似科学と科学の哲学 名古屋大学出版会 

疑似科学と科学の哲学