思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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社会的要因がもたらす格差社会と健康格差

 社会経済的指数と様々な変数の継時的変化を見ることができるグラフィックツールに『Gapminder World』があります。

www.gapminder.org

 このツールの使い方に関しては、以下の論文に詳しいですが、縦軸に健康問題、横軸に社会経済指数を設定することにより、世界各国における健康格差の実態を把握することができます。

www.ncbi.nlm.nih.gov

 例えば、縦軸に期待余命(Life expectancy)、横軸に収入(income)を設定してみると、第二次大戦以降、先進諸国では余命も収入も大きく上昇していることが分かります。社会経済要因、なかでも貧困は、人における疾病と死亡の最大の要因のひとつであると言われており、その実情をこのグラフィックアニメーションからも垣間見ることができます。

 しかしながら、収入が世界でトップレベルの国々においても、期待余命にばらつきが見られます。特に米国では、同国よりも収入が低いスウェーデン、ドイツ、日本などの国々に比べて期待余命が低いという結果になっています。このことが示唆するのは、貧困だけが期待余命に影響を与えているわけでなく、社会内における格差が健康に一定の影響を及ぼしているということです。

【正義は健康に良い?】

 倫理学を専門とするハーバード大学のノーマン・ダニエルズと、社会疫学を専門とする、同じくハーバード大学のブルース・ケネディイチロー・カワチ「正義は我々の健康によい」という論文の中で、貧困層がそうでない集団と比較して健康状態が悪い、ということではなく、格差の大きい社会では集団の健康状態も悪くなる” ということを複数の疫学的根拠をもとに主張しています。そして彼らは「相対的所得仮説」の重要性を説きます。(ダニエルズらの論文は以下の書籍に邦訳が掲載されています)

健康格差と正義―公衆衛生に挑むロールズ哲学

 さらにダニエルズらは、どのような場合に健康格差が社会正義に反するのか、という問題を提起したうえで、ジョン・ロールズの正義論に依拠した理論展開を行っています。(ロールズの正義論は大著であり、その概要を把握するのはなかなか大変です。ロールズの政治哲学入門書として、マイケル・サンデルの「これから正義の話をしよう」がおすすめです」)

正義論

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 ところで、ロールズは必ずしも格差を完全になくすべきとは主張しませんでした。社会において、不平等というものが生まれてしまうことは致し方がない、だけれども、どんな不平等なら正義にかなうのか、その思考原理の一つが「格差原理」と呼ばれるものです。すなわち、格差が容認されるのは、それによって最も恵まれない人々の暮らしを最大限改善するのに役立つ場合に限られるという考え方です。

 ダニエルズらは、人が標準的(ノーマル)な生活をおくるうえで、保健医療の分配は公正な機会の平等という規範に従うべきと主張します。これはロールズの言う「機会平等原理」にかなうものと考えられます。さらに社会格差と健康格差の相関関係を示した疫学研究に基づき、社会的経済格差を縮小することが健康格差縮小につながるという議論を展開しながら、ロールズ流の社会正義は「我々の健康によい」と結論しています。

 とはいえ、格差が(貧困の集中とは区別される格差が)いかにして不健康を生み出すのか、その因果メカニズムは明らかではありません(いくつかの仮説はありますが……)。また、所得の再分配と医療アクセス向上という政策のどちらを重視するかといえば、現実的には後者ではないのか、という指摘もあります(詳細は前掲の「健康格差と正義」を参考。アマルティア・センの序文も必見です!)。

【健康の社会的決定因子を考える】

 これまで医学は生物学的知見に基づき大きく発展を遂げました。病因の解明、薬剤の開発、新規治療法の考案、いずれも生物学を基盤とするミクロな科学的知見に支えられています。しかし、私たちの健康状態は、実際に生活している「場」の影響を絶えず受けています。社会階層、学歴、ソーシャルキャピタル、収入、居住地域など、人にとってマクロな要因が健康のあり様を決定する側面は、数々の疫学的研究で示唆されており、公衆衛生上、軽視できない問題と言えましょう。

 

 健康の社会的決定因子に関して、地域医療ジャーナルに2つの論考を掲載させていただきました。そのうちの一つ「格差社会における健康問題」では、格差の是正が必ずしも健康問題を解決するわけではないという、どちらかと言えばダニエルズらとは異なった理論展開をしているかもしれません。

cmj.publishers.fm

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 健康問題はこれまで医療の問題として取り上げられることがほとんどでした。しかし、私たちが生きるこの社会という「場」こそが健康に大きな影響を与えているという視点は、これからの医療を考えるうえで重要なポイントになることでしょう。2つの拙論を通じて、健康問題を生物・医学モデルからだけでなく、社会・心理モデルから考え直すきっかけとなりましたら幸いです。