思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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誰しもが自らの意志の外側で、何かに依存しながら生きている。

 Twitterでの自動配信メッセージや励まし合いは、禁煙成功率を2.6倍に高める』というツイートが流れてきて、ナルホドナと思いました。ソースは以下の論文です。

www.ncbi.nlm.nih.gov

 この研究は、160人(平均35.7歳)の喫煙者を対象に、ニコチンパッチ製剤による禁煙補助療法に加え、ツイッターによるディスカッショントピックや、エンゲージメントフィードバックを行うソーシャルネットワーク禁煙介入群と、ニコチンパッチ製剤による禁煙補助療法単独を比較したランダム化比較試験です。

 60日の追跡の後の禁煙達成割合は、禁煙補助療法単独群で14例/70例(20.0%)、ソーシャルネットワーク介入では26例/65例(40.0%)と、ソーシャルネットワーク介入の方が2倍(オッズ比2.67[95%信頼区間1.19〜5.99])以上多いという結果でした。

  この2倍という数値、当然ながらニコチンパップ製剤単独の効果サイズよりも大きなものです。ニコチンパッチ製剤およびニコチンガム製剤の禁煙成功率は、プラセボもしくは未治療に比べて、50~60%高い程度ですから。ちょうど、禁煙補助薬のOTC医薬品について、ファーマトリビューンさんのコラムにまとめた所でした。

ptweb.jp

 このコラムでも指摘したのですが、禁煙補助薬で禁煙が成功した人でも、治療中止後は喫煙を再開する人が多く、またプラセボで禁煙できた人では、その後の再開が少ない可能性が示唆されています。さらには、居住地域や社会環境が喫煙状況と関連しているとの疫学的研究もあります。禁煙の成功に大きな影響を与える要素は、禁煙補助薬の効果と言うよりも、本人の禁煙に対する関心や、本人を取り巻く社会環境の方が強いのかもしれませんね。

  このソーシャルネットワーク介入では、禁煙に対するモチベーション維持の他にも、禁煙を促す(社会的)環境を作り出している側面があるのかなと思います。2.6倍という成功率は、薬剤効果とは別のeffectによるものではないかと思うのです。健康状態を考えるうえでは、やはり健康の社会的決定因子を軽視できないように感じます。

cmj.publishers.fm

  喫煙習慣はニコチン依存という依存症の一種ではあります。依存形成の要因として、本人の意志の弱さが挙げられることも多いですけど、必ずしもそうとは限りません。喫煙するきっかけは人によって様々かと思いますが、少なくとも本人の意志ではどうにもならない環境による影響も大きいことでしょう。

 煙草を吸わなければ、仲間外れにされる、精神的につらい日々の中、煙草を吸ったらほっとした。自分のアイデンティティをなんとか保ちたい、という強い意志のもと(そういう意味で煙草を吸う人は決して意志が弱いとは思えません)喫煙習慣が形成されていく側面があるのだと思います。

 真に能動的な行為はあり得ない、環境がもたらす受動的な要因の影響とが入りまじった状況で依存が形成されていく側面が確かにあります。だから依存と意志の弱さに強力な連関があるわけではないのです。この能動でも受動でもない世界観を、哲学者の國分功一郎さんは「中動態の世界」と呼びました。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 喫煙に限らず、「依存」という現象はあらゆるところで起こり得ます。身近なところではカフェイン依存やアルコール依存が挙げられるでしょうし、社会問題として取り上げられることの多い依存に薬物依存があるでしょう。カフェインとその依存については、以下の記事の後半部分で少し触れていますので、ご参考いただければと思います。

ptweb.jp

 依存症について、精神科医の松本俊彦先生は、『薬物依存症 シリーズ ケアを考える』で以下のように述べています。

薬物依存症 (ちくま新書)

 

依存症とは、本質的に「人に依存できない」人がなる病気 …(中略)… 単に「人に依存できない」病なのではなく、安心して「人に依存できない」病である。

 社会的な「孤立」が依存を生み出している側面は確かにあるでしょう。孤独が痛みを増加させ、その痛みを緩和させるために、”ヒト”ではなく”モノ”に依存していく。それが煙草であれアルコールであれ、薬物であれ……。

 

  依存の文脈で薬物というと、覚せい剤や麻薬を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、医療全体を見渡してみたとき、例えばベンゾジアゼピン系薬剤でも依存は起こります。個人的にはプロトンポンプ阻害薬でもそう言う傾向があるのかなと思っていますが、程度の差はあれ全ての疾患領域の治療薬において「この薬がないと不安」という患者の想いは存在します。こうした薬剤の必要性に対する患者の価値観と、依存との境界を、明確に線引きすることはできないように思います。

  日経DIコラムでも触れましたが、がん治療における補完・代替医療に対する患者の想いもまた依存に近い現象なのかもしれません(語弊があるかもしれませんが)。

medical.nikkeibp.co.jp

 余命の限られたがん患者が、科学的には効果が証明されていないか、ほとんど効果ない治療に対して希望を見出し、その治療の継続を望む。しかし、それを「悪」として頭ごなしに否定することはできないでしょう。それは他者の心情や価値観を否定することと、なんら変わりありません。

 人は誰しもが自分の意志の外側で何らかに依存しながら生きているのだと思います。そして、依存先が何かの原因で消滅してしまったとき、生きることそのものに絶望し、自ら命を断ってしまうこともあるのでしょう。

 依存とは決してネガティブな意味だけを有しているわけではないのです。僕たちは依存なしに生きられない。それは意志の弱さでもない。ならば、どんな依存が社会的に許容され、どんな依存が許容されないのか、そうした考察が必要なように思います。