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【書籍紹介】ゆるく考える ―ラジカルにゆるく

東浩紀さんのエッセイ集「ゆるく考える」を読んだ。

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ゆるく考える

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ゆるく考える [ 東 浩紀 ]


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『友と敵の境界をクリアに引かず、「ゆるく」考えることは、最近のぼくにとって大きな課題になっている(ゆるく考えるp326)』

  本書のあとがきに書かれている一文である。2019年1月2日付の文章であるけれども、クリアに線引きしないというのは、東さんの思想全般に通じるテーマの一つではないかと思うし、ぼくもそうした“ゆるさ”に魅かれた一人である。

 理解は時に明確な線引きを要求するが、あえて理解を求めない、つまり理解への抵抗のなかにこそ、誰かを傷つけない大切な想いがあるのはないか。“ゆるく考える”とはそういうことだと思っている。

  本書、2008年から2011年のエッセイを読んでいると「郵便」「誤配」そして「観光客」という東さんが提示するワードが、それこそゆるく繋がっていくように感じた。

 

 僕が初めて東さんの著作に触れたのは2011年に刊行された『一般意志2.0 』。実際に読んだのは2015年頃だったはずだが、ルソーの一般意志を情報社会の現代に接続するという発想がとても衝撃的だったのを覚えている。

 その後、東さんに興味を持った僕は、おそらく彼のもっとも有名な著作である『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて 』を手に取る。既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、このブログのタイトルは同書のタイトルに影響されている。

 『存在論的~』を読んで感じたのは『一般意志2.0』との間にある、ある種の断絶である。断絶とは言い過ぎかもしれない。東さん自身も『あらゆるコミュニケーションについて、情報の質だけでなく「経路」を考慮しなければならないということ、それは16年まえの著書「存在論的、郵便的」以来の筆者の一貫した主張でもある(ゆるく考えるP279)』と述べている。

 もちろん、東さんの思想は当時から一貫して経路誤配というキーワードに貫かれてるようにも思えるし、エッセイである『一般意志2.0』と、哲学の専門書である『存在論的~』を同列に比較することは出来ない。

 とはいえ、ぼくが覚えたこの断絶感は、むしろ東さんが意図したものだったのかもしれない。2008年~2010年のエッセイを読んでいると、そんなふうにさえ思えてくる。

 

 2010年2月初出の文學界「なんとなく、考える」に寄稿されたエッセイ「ツイッターについて」で、東さんは以下のように述べている。

『ぼくの読者はこの10年、おもに三つの集団に別れてきました。二つではなくて「三つ」。一言で言えば、思想系、オタク系、そしてネット系の三つの集団(ゆるく考えるp236)』

  そして、この2010年を境に『思想系、オタク系、ネット系の三つの集団が分かれなくなってきた』と続く。

 ゼロ年代から2010年へと向かう只中で、インターネットの普及やソーシャルメディアの台頭は、人と人との関わり方を大きく変えた。公共性や全体性をめぐる問題解決のためのコミュニケーションは、すでに話し合いではどうにもならない時代。インターネットは、いわば”分かりあえない時代”を構築したのだ。

  そのような時代背景のなかで、批評はどのような方向を目指していけばよいのだろうか。こうした問いを巡る東さん独自の思索と、同時期に発生した読者層の変化。このタイミングを転換期として、彼の取り扱うテーマが一つの「物語性」を持って動きだしたかのように感じる。

動物化の時代にいかにして公共性が成立するのか、問われなければならない(ゆるく考えるp197)

 そうした問いへの思索によって、ルソーの「一般意志」という概念と、従来から一貫して取り上げてきた「誤配」という概念を、ツイッターというツールに着想を得ながら融合していく。

 『存在論的、郵便的~』から『動物化するポストモダン 』の流れよりも、『一般意志2.0』から『弱いつながり 』『観光客の哲学(ゲンロン0) 』までの道筋の方が個人的にはとても鮮やかに写るのだ。2011年以前の断絶感は2011年以降もはや感じない。

 

 ゆるく考えること、それは現代社会においてしばしば忘れ去られている。本書の第一部である2018年のエッセイ集はそのことをぼくらに気づかせてくれる。

 ”話し合うことで価値観をすり合わせる” もちろん、そういう局面も重要だ。だがしかし、この現代社会においては、それだけでは何も解決しないことの方が多い。解決していると信じられているのは、一方が抑圧に耐えているからに過ぎない。

 話し合いは時に誰かを抑え込むための手段でしかない。それは、一見すると多様な価値観の相互承認とも思えるが、民主主義の世界では”常識”が圧倒的な影響力を持っている。だからマイノリティは常に抑圧されるしかない。それが話し合いの本性だったりする。東さんの民主主義2.0に共感を覚えたのは、”話し合い”が有している隠された限界性を、日常生活の中で、ぼく自身が感じていたからなのだと思う。

『人間は論理的ではない。話し合えば正しさが実現するわけではない。すべての政治と哲学は、この前提から始まらねばならない(ゆるく考えるp66)』

『人間は本当に、正しく事実に基づき正しく議論すれば、みな同じ結論に到達するのだろうか。…(中略)…そうであれば宗教の争いなどあるはずがない。正義はつねに複数なのだ。日本人は「話せばわかる」の理想をどこかで信じている。けれど本当は「話してもわかりあえない」ことがある……(ゆるく考えるp81)』

『ぼくたちの世界はそもそも、「あえて」で乗り切れるほど単純ではない(ゆるく考えるp124-5)』

 無駄を許容するということ。むろん、“あえて”寛容になる必要はない。ただ、ぼくたちは人と人とのコミュニケーションのみで何かが上手くやれる、という社会には生きていない。そのことを自覚した方が、少しだけ楽になれる。むしろ、そうした”弱いつながり”こそが、環境に拘束されてきた人生観を大きく変えるきっかけになるものかもしれない。