思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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人類学的・行動経済学的に考えるポリファーマシー

 第10回日本プライマリ・ケア連合学会学術大会、5月18日の教育講演の振り返りを続けていきます。

confit.atlas.jp

・名郷直樹先生:ポリファーマシーと言われる中で起きていること:構造主義医療の視点から
・尾藤誠司先生:なぜ薬が増えていくのか」に関する人類学的・行動経済学的考察
・京極真先生:ポリファーマシーをめぐる目的や考え方の相違とその対策案

 名郷直樹先生の講演内容については以下のエントリーにまとめてあります。

syuichiao.hatenadiary.com

 

  今回は尾藤誠司先生の講演を振り返りながら、その内容をまとめたいと思います。尾藤先生は、『なぜ薬が増えていくのか?』というテーマに対して、『呪い』行動経済学という観点から考察されています。尾藤先生により提示された3つの呪いの呪文を以下に引用します。

『私は患者に常に良いことをしている。私は、信頼され、期待に応える存在でなければならない』
『私は、患者のリスクと愁訴をゼロにする役割を全面的に負っている』
『患者の健康問題のほとんどは、クスリと施術によって解決されるべきものである』

 医療者の一般的な心理として、どんな小さなリスクでも、ひとたび関心が向けられてしまうと、それが許容できなくなってしまう傾向があげられます。“ゼロを目指すことは前提としての義務”という観念が強迫的に迫ってくることは多々あるでしょう。尾藤先生は、こうした心理傾向を行動経済学プロスペクト理論によって鮮やかに描き出していきます。

 一般的に人は損をすることを嫌います。例えば『コインを投げて表が出たら2万円もらえ、裏が出たら0円』という状況と『確実に1万円もらう』という状況、どちらを選ぶでしょうか?

 多くの人は『確実に1万円をもらう』を選ぶと思います。つまり、確実性を重視(確実性効果)して、リスク回避的判断を行っているのです。

 では、『コインを投げて表が出たら2万円支払い、裏が出たら0』という状況と『確実に1万円支払う』という状況では、どちらを選ぶかでしょう?

 多くの場合で『コインを投げて表が出たら2万円支払い、裏が出たら0』を選ぶように思います。50%の確率で大きな損失を出してしまう選択をする、というリスク愛好的判断は一見すると損失回避に矛盾しているかのように見えますが、『100%の確率で確実に1万円を支払う』という損失を回避し『50%の確率で支払いを免除されよう』という心理傾向が働いているわけですね。

 このように、ぼくたちは損失に関しては過剰に、利益については過小に評価する傾向があります。現時点の状況(これを参照点と呼びます)において、少しの損失でも大きく価値を失うと考え、逆に利得は大きくないと、価値を大きく付与しないのです。こうした確実性効果や損失回避というリスクへの態度に関する人々の意思決定の特徴を示したモデルをプロスペクト理論と呼びます。

 医療者が考える健康管理をプロスペクト理論で考えてみましょう。すると大きな問題が一つ浮上します。それは生きることそのものが健康リスクであるということです。人間の死亡率は100%であり、いつかは必ず死亡します。あるいは生きていれば生命を脅かすような病気や事故に遭遇することもあるでしょう。その可能性をゼロにすることは不可能です。

 しかしながら、健康に対する医療者の認識において、参照点は健康リスクゼロに設定されています。従って、健康管理に対するフラストレーションが常に渦巻いている状態が発生してしまうのです。『私は、患者のリスクと愁訴をゼロにする役割を全面的に負っている』という呪いは、こうしたフラストレーションにより原理的に解除できない仕方で医療者の観念に深く突き刺さっていきます。

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【図】健康管理におけるプロスペクト理論(尾藤先生のスライドより引用)


 では、こうした呪いから解放されるにはどうすれば良いのでしょうか。尾藤先生が最後に提示したTake-home Messagesを以下に引用します。

“あなたは、患者にとってそれほど偉大な存在ではない。たまに患者に害を与える”
“リスクも愁訴も決してゼロにはならないし、ゼロを目指すべきではない”
“クスリも施術も、セルフケアにはかなわない”

 重要なのは、リスクは決してゼロにはならないということです。そのリスク回避のために「薬」という厄除けを行うのではなく、「薬のんでも8のつらさが6になる程度だが、その助けも借りながら自分で何とか生活を工夫して、平均4くらいのつらさですごしてみる」というところを目指してみる、「医療者の強力な手札のおかげで8のつらさが4でよくなった」という物語が幻想に過ぎないことを自覚する必要があるかもしれません。


【参考文献】

医師アタマ 医師と患者はなぜすれ違うのか?

医師と患者がともに最善の選択を探すためには何が必要かを考える尾藤先生の著作

医者の言うことは話半分でいい

医師とのコミュニケーションの取り方に関する、同じく尾藤先生の著作

医療現場の行動経済学: すれ違う医者と患者

医療×行動経済学。医療者が行動経済学に興味を持ったら、まず最初に読む本としておススメです。