思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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医療…その“科学的”という立場を再考する

[根拠に基づかない医療は存在するか]

EBM(Evidence-Based Medicine)は、一般的に「根拠に基づく医療」と訳される。「根拠に基づく医療」という概念が存在するのならば、「根拠に基づかない医療」などという概念が存在するのだろうか。そのような疑問が提起されてもよいだろう。そもそも基づくのか基づかないのかは別として「根拠」とは何か、その定義によって、「根拠に基づく医療」と言う概念は大きく異なるかもしれない。

EBMのバイブル「Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed」 1)にはEBMについて以下のように書かれている。

「Evidence-based medicine (EBM) requires the integration of the best research evidence with our clinical expertise and our patient’s unique values and circumstances」

EBMには医療者の臨床に関する専門知識と、患者の個々の価値観やその環境に、最良の研究データ(科学的根拠)を統合することが求められる」

ここでいう「最良の研究データ」とは何か。僕たちが医療現場において、臨床判断の意思決定を行う際には、多くの場合でなんらかの“科学的根拠”があるはずだ。[1] 医薬品の用量用法は何を根拠に決められているのか、薬剤Aと薬剤Bの併用は問題ないのか、そのような問いに対する臨床判断に対して、多くの場合で、医薬品添付文書が活用されることだろう。あるいは薬理学や薬物動態学等の教科書かもしれない。また、医薬品の効果について、製造元の製薬会社の学術へ問い合わせることもあるだろうし、医薬品情報担当者の情報に基づくケースもあるだろう。自分自身がこれまでに経験・実践してきた結果を踏まえることも意思決定の根拠となるだろう。[2] 

そのような根拠に基づけば、これまで僕たちが行ってきた医療とEBMは何が異なるのか。それほど大きな差異はないのではないか。今ここであらためてEBMと強調するのはいかなるわけか。現代医学・薬学はその正当性において科学的合理性に基づいてきたはずだ。多くの場合で添付文書の記載事項が非科学的だとは思えないし、教科書の記述が科学でなければ、医学・薬学という学問はそもそも成立せず、それは宗教や迷信の類と変わらないのではないか。

[科学と宗教と迷信]

 科学と宗教、そして迷信の違いについて簡単に触れておきたい。このテーマについては生物学者の池田清彦先生による「構造主義科学論の冒険」2)に詳しい。ここではそのエッセンスを簡単に紹介する。

科学とは端的に言えば、ある出来事と、ある出来事の関係を記述したものである。例えば、「水を熱すれば液体から気体となる」という記述は、水が液体であるという出来事と、水が気体であるという出来事の関係性を記述している。この記述は将来を予測することが可能である。例えば、明日、水を熱したとしても、おおよそ100℃に達すれば、その水は気体となるであろう。このようにある出来事からある出来事の関係性を記述しているために、一つの出来事から、将来起こり得ることを想定できるのが科学的な記述形式である。

一方宗教はどうであろうか。宗教において将来を予測できるのはおそらく神だけではなかろうか。宗教的な記述ではある出来事から将来を予測することが神以外にできないという構造になっている。では迷信と科学は何が異なるのだろうか。迷信とは、合理的根拠がないにもかかわらず昔から習慣的、経験的に信じ込まれているような出来事であり、実はこれも将来を予測しうる記述形式にはなっている。

例えば、「敷居を踏むと出世しない」という迷信がある。敷居は場所と場所の境界線上に辺り神聖な場所であり、その部分を踏みつけるのは作法として良くないというわけだ。この記述形式は敷居を踏むという出来事が、将来の出世についての予測を行っていることになっている。しかし科学と決定的に異なるのは、予測される将来の確度に他ならない。(表1)

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僕たちが医療判断におけて、意思決定の際に用いる”根拠”は、明確に科学的といえるであろうか。迷信とは言わないまでも、将来を予測する確度において、迷信的要素を全く含まないと断言できるであろうか。(表1)は科学、迷信、宗教という3つの区分に分けたが、実際にはその境界は曖昧であるという事は十分にありうる。[3] 少なくとも科学と迷信の境界は明確に区分できるものではない。将来を予測する確度がいったいどれくらいなら科学的と言えるのか、明確な定義は存在しない。

EBMでいう所の最良の研究でデータ(research  evidence)、すなわち「科学的根拠」とは何か。これは臨床に関連する研究を意味している。1) それは時に基礎医学的研究に基づくものでもありうるが、特に患者中心の臨床研究を重視する。科学根拠とは端的に言えば医学、薬学に関する「客観的情報」である。ここで重要なポイントは、科学、迷信の境界があいまいであるがゆえに、この世に存在する客観的情報は、はたして科学的記述なのか、迷信的記述なのか、疑おうと思えば、いくらでも疑うことができる、ということだ原理的にそうなので、疑えない情報は存在する、と言われようが人間には疑うことができてしまうのだ。[4]

病態生理や薬理作用に基づく薬剤効果は多くの場合で仮説にすぎない。EBMで重視する関係性の根拠に患者中心の臨床研究から得られた示唆[5]を用いるのは、そのような仮説的要素(迷信的要素)を極力排除するためである。

 [参考文献]

1) Straus SE.et.al.Evidence-based Medicine;How to practice and teach EBM 4th ed

2)池田清彦 構造主義科学論の冒険 講談社学術文庫1998 P26-30

 [脚注]

[1] 慣習的に決められたことを前提とする意思決定の際には科学的根拠を伴わないと言えるかもしれない。しかし薬剤師の臨床判断において、たとえ慣習的と言えど、その裏には一定の科学的根拠の存在を前提としていると言えまいか。

[2] 過去の経験や観察パターンにより普遍的な法則を導く手法を帰納法と呼ぶ。例えば水は100℃で沸騰するという観察が過去に複数回経験されれば、今水を沸騰させても100℃で沸騰するだろうと結論することができる。

[3] 科学と科学でないものをどう区別するのか、これは科学哲学領域では古くからの問題で「線引き問題(demarcation problem)」と呼ばれており、明確に線引きできるただ一つの基準は現段階でも見当たらないと言われている。これについては戸田山和久先生の「科学哲学の冒険」(NHKブックス 79頁)にわかりやすい記載がある。

[4] 合理主義哲学の祖であるルネ・デカルト(1596年~1650年)は「我思う、ゆえに我あり」すなわち疑う自分だけは疑えないと言った。

[5] もちろん、臨床研究だけではなく、生理学的な研究や非系統的な臨床観察もEBMにおける科学的根拠に含まれる。重要なのは臨床研究を重視するという事であって基礎研究を無視することではない。