思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬の現象学~第5回:薬剤効果の3世界像~

これまでの示唆をまとめよう。実際に薬を飲んで効果が実感できるという知覚は、薬を飲んだことが原因となって、その結果感じられる疑う動機を持てない因果関係と言えるが、その効果は科学的に妥当な因果関係、すなわちエビデンスの結果とは無関係に存在することもありうる、という事が明らかになった。人が直感しうる因果関係と科学的に妥当な因果関係は必ずしも一致しないのである。またこの場合、どちらが正しい因果関係なのか、という問題は厳密には解決することはできない。科学的に妥当な因果関係でも、あくまで妥当なだけであり、真の因果関係ではないからである。

ここで人が確信している因果関係と、客観的に存在する真の因果関係の優劣を論じることにあまり意味はない。医療を受けている人は身体不条理を今現在ありありと感じているのであって、その身体不条理が、薬により解決すれば、そこに因果関係が成立し、もはやは疑う動機を失うからだ。それが真かどうかはさしあたって重要ではない。

しかし、このように人が知覚しうる薬剤効果のみを追い求めていくと、あらゆる薬剤が際限なく用いられ、突き詰めると、科学的に妥当な因果関係のない薬剤が、保健医療で賄われることになってしまう。プラセボ効果があるように、人は薬を飲んだ、というだけでその効果を確信することがあり、薬剤の使用は科学的妥当性という枠の中で使用されないと、砂糖でも医薬品になりうる。人間の個人の知覚は非常にあいまいである。

[内在と超越]

現象学では、今ありありと感じている現象を、その内在の根拠とする。内在とは人がこれ以上疑いを持つことができない対象存在である。例えば、リンゴがあったとしよう。原理的にはそのリンゴが本物ではなく、プラスチックでできたただの飾り物である可能性が想定できる。実際に手に取ってみてみると、その重さや質感は本物のリンゴと同じようだ。しかしそれでも精巧な技術で作られた偽物である可能性は排除できない。では実際に食べてみたとする。味は本物のリンゴであり、みずみずしく美味しい。ここまで来ると人は、もはやこのリンゴを偽物と疑う動機を持つ意味はないだろう。たとえ、それがリンゴの味そっくりの「なし」であろうが、外観も質感も味もリンゴなら、そのリンゴをそれ異常を疑う動機を持てない。この最終的に疑う動機を持つことができない対象存在を内在と呼ぶ。それに対して、疑う動機が残されている状態、すなわち可疑生が残された対象存在を超越と呼ぶ。

僕たちが認識している多くの対象存在は超越を含んでいる。例えば外で、救急車のサイレンが鳴ったとしよう。救急車の走行音も聞こる。この時点で、僕たちは家の前の道路を救急車が走っていると感じることができるが、この認識は超越を含んでいる。なぜならば、誰かが、外で救急車と似たような音を発していただけかもしれない。しかし、実際に窓の外を見ると確かに救急車が走っていった。この時点で、誰かが救急車と似たような音を発していたという事にはなり得ず、救急車が走行していたことはもはや疑いのないものと取り出せる。この認識の根拠が内在と呼ばれるものである。

話を薬の効果に戻そう。薬の効果の内在は、科学的に妥当な因果関係ではない。科学的に妥当な因果関係、つまりエビデンスからの示唆は超越を含んでいる。エビデンスから示唆される薬剤効果を実際に知覚できるわけではないからだ。薬剤効果の内在は実際に薬を服用した後に感じられる知覚に他ならない。そしてこの内在知覚は人それぞれ異なっているし、その基準を客観的に厳密に定義することは不可能である。したがって、薬物治療という枠組みを人間個々の内在のみで構築してしまうと、ありとあらゆる治療法が存在することになり、これはまったく収拾がつかない事態となる。第4回でも考察したように、人が知覚しうる薬剤効果は「ことがら」に属し、共通了解の可能性は低く、一律に規定できない。

ありありと知覚される現象を追う事は重要だが、医療財源という観点からすれば、患者個別の内在知覚に依存することは、あらゆる治療法を保健医療で賄わねばならないことを意味し、それは医療崩壊を意味する。また薬剤を投与する段階、つまり医療者が治療方針を決定する段階で、その薬剤効果は患者に知覚されていない。したがって、薬剤を選択し、治療を行う段階で、最も超越を含まない薬剤効果を規定するものは、やはりエビデンスなのである。

[薬剤効果の3世界像]

ここで内在、超越という述語を用いて薬剤効果の3世界像を定義しよう。別に5つの世界像でも構わないが、本稿では3つに分けて考察する。まず一つ目の世界像は、薬剤効果の内在領域、つまり、それは薬を投与された人が、ありありと知覚するその効果だ。

そして2つ目の世界像は、科学的に妥当な因果関係を示したエビデンスのことである。この場合基本的にはランダム化比較試験やそのメタ分析を指す。本稿では研究デザイン名称やその手法を知る必要はない。端的に言えば、通常複数の人間(通常数百人から数千人)を対象に、ランダムに薬を投与する集団、薬を投与しない手段に分け、検討したい効果指標について、統計的手法を用いて検討するもので、心臓病が20%へる、死亡が30%へる、副作用が10%増える、疼痛のスコア(点数)が10点減る、というような記述がなされる。統計的処理がなされるがゆえに、その偶然性や解析手法の妥当性が問われる余地があり、超越的な示唆ではあるが、複数の患者における現象を記述したものだ。そういった意味では薬剤の平均的な効果を記述しているともいえる。

最後に3つ目の世界像。これは科学理論のことだ。例えば、糖尿病ではインスリンの分泌が悪く、血糖値が高い。したがってインスリンの分泌をうながす作用のある薬剤で効果が期待できる、というようなものである。これはあくまで仮説的推論に過ぎず、多分に超越的概念である。その薬でインスリンの分泌をうながしたところで、血糖が下がらないかもしれないし、下がったところで、心臓病などの合併症を予防できるかどうかは全く想像の世界である。科学理論はほかの世界像に比べて明らかに超越的概念である

[薬剤効果のとらえなおし]

危機に直面している現代医療において、僕たちは薬剤効果に対してどのような世界像を共有すればよいのだろうか。科学理論からの世界像は多分に超越的概念を含み、薬剤効果の世界像として、知覚しうる現象を救う事は困難なようにおもえる。一方で、個々人の内在領域で薬剤効果の世界像を編み上げることは、制度としての医療崩壊を意味しているといえよう。僕たちが薬剤効果の世界像として共有すべきは、科学的に妥当な因果関係を記述したエビデンスではないだろうか。

しかし、なぜこれまでエビデンスがあまり重視されなかったのであろうか。エビデンスを重視しながら医療を実践してゆく、その仕方をEBM(evidence-based medicine)と呼ぶが、EBMの実践においては薬剤効果の世界像にエビデンスのみで語ることを避けている。なぜなら、薬剤効果はエビデンスに規定されたとおり発現されるものではないからである。対象となる患者の文脈もよくよく考慮せよ、という事なのである。しかし、このような患者本人の文脈ばかりが考慮されていると、エビデンスはむしろほとんど考慮されていない、という現実がある。薬剤効果をとらえなおすにあたり、僕たちはむしろエビデンスを今以上に意識すべきなのではないだろうか。

しかし、それでも患者個別の文脈を考慮しなくてはいけない、というのはとても真っ当な意見のように思える。そこで、以降ではそもそも薬剤効果は患者の関心に応じて立ち現れる可能性と、その関心が恣意的に構成されているということを明らかにし、薬剤効果の世界像から患者個々の文脈を切り離す試みを実行したい。

[関心相関的に発現される薬剤効果]

物事は、人の関心に応じて立ち現れる。どういう事だろうか。例えば、あなたの目の前にホッチキスがあったとする。通常、ホッチキスは複数の紙をその内部に装填した針で止める役目を果たすものとして存在している。しかし、あなたはどうにもトイレに行きたくなったとしよう。部屋には扇風機が回っている。そして目の前には今読んできた給与明細。相変わらず所得税が高い。扇風機は強風で運転されており、このまま、テーブルの上に明細書を置いたままだと吹き飛ばされてしまうだろう。

さてここでホッチキスが目に入ってきた。給与明細をテーブルの上におき、風で飛ばされないようにホッチキスを重り代わりにその上において、あなたはトイレに向かった。この時のホッチキスは、その本来の道具としてではなく、単に重りとして存在している。そして明細書が風で吹き飛ばされないように何か、重りになるものはないか、という関心がホッチキスを「重り」として存在させたのである。つまり、物事や事物は人の関心相関的に立ち現れるという事である。薬剤効果も少なからず、この関心相関の原理が働く。薬剤成分が全く含まれていないのに、症状が改善するといプラセボ効果も一種の関心相関性ではないかと思われる。風邪薬だと思って飲めば、風邪の症状を改善したように感じる。症状がおさまるであろう、薬を飲んだからきっと良くなるだろう、というところに関心が向かう事により、実際に知覚しうる効果が発現される可能性は誰も否定できないであろう。薬剤効果にも関心相関の原理が存在するように思われるのである。

ところで、薬はどんな時に服用するのだろうか。当たり前だが、身体不条理があるから、将来的に身体不条理が起こるリスクがあるから服用するのだ。端的に言えば、病名が付与されている状態だから、何らかの治療が必要なわけで、薬物治療が必要な病名が付いた段階で、薬剤の投与が開始される。この病名も一つの関心の対象である。風邪と言われたら、なんとなくそれだけで、体調が悪くなった気がしないだろうか。血圧が高いと言われただけで、なんとなく不健康な気がしないだろうか。自分が思うよりも深い傷、と言われただけで傷口が痛むという事はないだろうか。つまり病名が付与された段階で、程度の差はあれ、身体不条理がたち現れるという事がありうる。

しかしここで、あらためて考えてみたいのは、いわゆる病名で定義されるような病気は僕たちの思考とは独立してこの世界に自存するものなのだろうか。次回は疾患成立の恣意性を取り上げながら、このテーマを掘り下げていく。