思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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かかりつけ薬剤師とは何なのか

「かかりつけ薬剤師」とは、患者が使用する医薬品について、一元的かつ、継続的な薬学管理指導を担い、医薬品、薬物治療、健康等に関する多様な相談に対応できる資質を有するとともに、地域に密着し、地域の住民から信頼される薬剤師を指す。

(日薬業発第194号)※太字は筆者が強調)

なるほど。素晴らしい概念だ。[1]ただ、「かかりつけ薬剤師」なるものは、なにも最近生まれた概念でもなんでもなく、僕が薬局に勤務している時代から言葉だけは存在していた(ように思う)。しかしながら、今はどうだか知らないが、多くの薬局企業はかかりつけ薬剤師に対する明確なビジョンは持っていなかっただろうと推察する。[2]これは特に大企業となれば顕著だったと思う。企業にとっては顧客、つまり患者が薬剤師にかかりつくかどうかは実はあまり重要ではなく、企業の顧客として薬局にかかりついてくれれば良いのである。[3]まぁ、「かかりつけ薬局」なる言葉もあるにはある。

「かかりつけ薬局」とは、地域に必要な医薬品等の供給体制を確保し、その施設に従事する「かかりつけ薬剤師」が、患者の使用する医薬品の一元的かつ継続的な薬学管理指導を行っている薬局を指す。

(日薬業発第194号)※太字は筆者が強調

なるほど、ただこの定義によるとかかりつけ薬剤師の存在が前提となっている。僕が薬局勤務をしていた当時、頻繁に行われる人事異動によって、「地域に密着し、地域の住民から信頼される薬剤師」の育成は相当困難な状況にあった。つまり“かかりつけ薬剤師”も“かかりつけ薬局”も現実的には達成が相当程度困難なビジョンだったというよりほかない。

現在はどうなのか、それについては大いに議論の余地があるだろうし、そもそも、かかりつくことが良いことなのか、という問題もあるだろう。ただ来年度の調剤報酬改定では「かかりつけ薬剤師指導料」の新設が検討されており、これは企業にとっても重要な問題だろうと思う。また、多くの場合でかかりつくことは、患者の立場に立ってみれば重要な側面もある。(詳細な議論はここでは割愛する)以下、かかりつけ薬剤師の存在は一定の役割があるものとで議論を進める。[4]

〔かかりつけ薬剤師になるためには〕

来年度の調剤報酬において、かかりつけ薬剤師指導料が検討され、それに伴い、かかりつけ薬剤師という存在に対しては一定の基準を設けるようだ。具体的には

 

①薬局での一定の勤務年数や在籍年数、1週間の勤務状況

②薬剤師認定制度認証機構が認証している研修認定制度等の研修認定の取得

などが挙げられている。詳細は確認していないが、以降の議論において、検討材料はこの2つで十分である。

まず①は納得である。企業も人員配置についてもう少し真剣に考えなければ、地域医療なんてできるわけがないだろう。もちろん、配属年数が長いほど、勤務者の怠慢などが出てくるケースもあるのは承知だ。僕も中間的な管理職の経験があり、その実態はよく理解しているつもりである。

しかし、少なくとも人事異動が頻繁に行われることは、かかりつけ薬剤師なるものの育成には向いていない。“その人がいなくても仕事が回るシステム”は重要だし、そういったシステムの構築は企業組織として大切なことだとは思う。しかし、人(医療者)と人(患者)が複雑に関わる医療と言う現場において、「あら、また人が変わったんですか?」と不安そうにしている患者さんの顔を見るたびに僕は思った。

“その人がいなくても仕事が回るシステム”は何か大事なものを見失っている。

次にいこう。②は僕がここで最も批判的に議論したいテーマだ。かかりつけ薬剤師になるためには薬剤師認定制度認証機構が認証している研修認定制度等の研修認定の取得が必要だという。

認定薬剤師について今更多く語ることもないと思うが一応その制度の概要を述べておこう。[5] 認定薬剤師なるものは薬剤師認定制度認証機構が認証したプロバイダーが実施している研修をうけ、単位を取得せねばならない。この単位は研修シールとして、研修手帳に貼付していくことで、研修受講の証明となる。これを俗にシール集めという。[6]

必要単位数は認定プロバイダーごとに若干異なるが、新規取得では基本的に40単位である。現在プロバイダーは公益財団法人日本薬剤師研修センターをはじめ、薬科大学や学会など21団体が認証されているようである。[7] ちなみに僕はこれまでに薬剤師研修センターと、明治薬科大学で認定薬剤師を取得したことがある。いずれも1回のみの取得で更新しておらず、現在では完全に失効している。[8]

では認定薬剤師の何が問題なのかという事であるが、研修の質にかなり差が有るという事が挙げられる。インターネットで簡単に単位を取得できるものものあれば、大学でワークショップや講義スタイルでみっちり学習するものもある。基本的には学習時間と単位が対応しており、その教育コンテンツの中身はあまり重視されていない。つまり、とりあえず認定が欲しければ、eラーニングシステムを購入し、パソコンの画面を眺めながら、左クリックをし続けていれば、簡単に認定シールを集めることができる。[9]

何を隠そう、僕はそういった仕方で認定薬剤師を取得した。もちろんそんなふうに取得した認定に実質的意味は何もない。薬剤師免許があるなら、金と時間をつぎ込むことで誰でも認定を取得できる[10]このような仕方で取得できてしまうこともある認定薬剤師をかかりつけ薬剤師になるための要件として設定するという話なのである。

当然ながら企業にとって、加算は欲しい。つまり認定薬剤師を手っ取り早く作成することが急務となる。社割でeラーニングを推奨し、左クリックで誕生した認定薬剤師が量産されることになるだろう。[11]

しかし、僕は、ここで2つの違和感を覚える[12]。世間一般の人から見れば「認定薬剤師」「基準を満たした、かかりつけ薬剤師」なんていうとなんだかものすごく専門的で優秀な薬剤師であり、普通の薬剤師とは何か違った存在として見られることもあるだろう。もちろん、目的をもって認定薬剤師を取得された薬剤師も多々いらっしゃり、それはそれで立派なことだと思う。僕は別に研修を受講することを否定しているわけじゃない。ただ、先に述べたような仕方で取得された認定薬剤師に実質的な価値はない、と言っているだけだ。

そして、もうひとつ。お金と時間の無い人たちは、隙間時間を利用して、独学で一生懸命勉強したとしても認定薬剤師になれないばかりか、今後はかかりつけ薬剤師にもなれないことになる。なんてクソ(いや失礼)なシステムなんだ。薬剤師としての価値は金と時間をどれだけ研修センターにつぎ込んだか決まる。無料で閲覧できる原著論文を、隙間時間に読み、患者のために悩みながら、試行錯誤してもなにも評価されない。そんな現実が生まれようとしている。

 〔学びは誰のためのものか〕

薬剤師の生涯教育、特に認定制度は教育格差の延長線上にあることを知れ。[13]学びはもっと自由であるべきだ。それが薬剤師としての存在評価を制限してはならない。目の前の問題を解決するために必要なスキルや知識はもっと多様だ。eラーニングを立ち上げ、テレビを見ながら右クリックして取得した認定薬剤師に何の意味があるのか。メーカー共催の勉強会でもらった認定シールをせっせと集めることに何の意味があるのか。そして、それが公的な評価として、薬剤師の業務に制限をもたらすのなら、僕はそんなシステムは“くそくらえ”だと思う。[14]僕たちはもっと自由に学び、自由[15]に発言し、多面的な視点で医療と関わるべきだ。

確かに「薬剤師の質の評価は、じゃ誰がやるんだ!」という意見もあるだろう。認定薬剤師が質を保証するものではないかもしれないが、認定の無い薬剤師の質が高いという事にはならない。

ところで薬剤師の質とはなんだ?知識がたくさんあること?コミュニケーション能力が優れているということ? これは質そのものの定義についての問題である。「他の医療従事者や患者からの信頼を高め、常に時代に即した薬学的ケアを行える薬剤師」を育成するためにはどんな教育コンテンツが必要なのか、あらためて考えていかねばなるまい。そこに必要なのは何も薬学的知識だけとは限らない

一定の水準を満たした薬剤師をそうでない薬剤師と差別化することは、必要なことなのかもしれない。ただそれは患者が決めることだ。かかりつけ美容師を決めるのはお客の問題であり、美容師なんたら協会がきめているわけじゃないだろう?

なんたら法人か知らないが、そもそもあなた方に僕の何が分かって、僕のどのあたりが認定に値しないのか(あるいはするのか)、あなたがたにそれを十分判断できるという自信がおありなのですか?(だとしたらその根拠はなんなんですか?シールの枚数ですか?)[16][17]

知識があって優秀な薬剤師であろうが、患者の信頼が得られなければ、認定薬剤師の資質としていかがなものであろうか。国家資格は最低限の線引きとして国が与えるものであるが、そこから先はもう少し自由な仕方で境界が設定されても良いのではないか。少なくとも経済的事由や、環境的事由により時間が確保できない薬剤師がたくさんいて、そのような人は認定薬剤師の取得すらままならないことを知れ

勉学に励むことができる、それは本人の意志とは独立したファクターなのだ。そういった想像力の欠如した上位団体や公的組織に対して、僕は異見し続ける。加算を算定するための“かかりつけ薬剤師”やシール集めは目的を見失っているとしか言いようがない。そこにあるのは会社の利益や、研修センターの利益だけであり、患者や国民の利益ではない。[18]そして薬剤師の育成と言う教育的目的すら見失いかけている。

 

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〔脚注〕

[1] 当たり前のことのようにも思われるが。

[2] もちろん例外もあるだろう。個人の経験をベースに“多くの場合”について述べている。

[3] これについても例外があるだろう。しかし大企業であればあるほど、この傾向は顕著だという事に対して明確な反論があるなら是非聞きたい。

[4] 病院薬剤師の立場である僕が述べることではないかもしれない。ただ、薬剤師の教育の在り方についてはほんの少し思索を重ねてきた。教育という観点から意見したいことも多々あり、申し訳ないが愚見を述べさせてもらう。

[5] 詳しくはこちらをhttp://www.jpec.or.jp/nintei/kenshunintei/

[6] 最近では「山崎春のパン祭り」とも呼ばれており、なかなかハイセンスなメタファーだと感じている。誤解の無いように注意したいのだが、シールを集めるその仕方についてのメタファーであり、山崎パンは個人的に大好きである。

[7] このあたりも詳細は知らない。http://www.cpc-j.org/contents/c15/ukeirejyouken あまり興味のないことであり、この先の議論に関係ないので、21団体と言うことにさせてもらう

[8] もうたぶん永久に取得を目指すことはないだろう。

[9] これが「山崎春のパン祭り」と言われるゆえんである。つまり、金さえあればパンを買うようにマウスの左クリックだけでシール集めが可能だ。

[10] 誤解しないでいただきたいのだが、僕は認定薬剤師制度そのものを否定しない。現在の認定制度乱立には思うこともないとは言えないが、このような制度が薬剤師教育に一定の役割を果たしてきたこと確かであり、今後も必要な制度だと言える。

[11] 言い過ぎか?

[12] いや、むしろ吐き気を感じる

[13] もちろん教育は多かれ少なかれ格差が生じる。薬学部で学ぶことができるか否かもその格差の中にあると言っても良い。ただそれを言い出すと、日本の教育制度そのものが格差の中にある。どのような状況においても一定の線引きは必要かもしれない。しかし、より多くの人が自由に学べる環境こそが、僕の理想とする教育環境である。だから例えば、社会人となってあらためて薬学部に行くことができる、そういう社会こそが教育環境として優れた社会だと僕は思うのだ。

[14] ことばが汚くて失礼。

[15] 自由に学ぶ、これを理解するのに僕は5年くらいかかった。僕たちは自由に学んでいるようで自由に学んでいない。これをやるよりほかないという仕方で学ぶことは自由な学びではない。

[16] なんたら法人に認定される筋合いはない。まあ僕みたいな人間を認定する気もないでしょうけど。

[17] 偉そうですみません。ちなみに僕は全然優秀な人間でもないですから、多分求められているような、かかりつけ薬剤師の資質は無いと思います。そんな人間の意見で申し訳ない

[18] 明確に否定できるか????

 

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