思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬剤効果の形而上学

薬剤効果をめぐる議論は時に信念対立を招く。薬が効くというその仕方は、科学的にどのように説明しうるか、と言う問題は、どんな薬剤効果理論が真なる理論なのか、という問題を提起する。薬理学に基づく考え方、疫学に基づく考え方、おおよそ基礎薬学、臨床薬学でのこのような考え方の違いは、薬剤効果に対して、様々な見解をもたらし、その効果理論は時に矛盾する。本論考では、薬剤効果に対してどのような思考原理を適用すればよいのか、その原理について述べる。

〔構成的実在論による事実3分類〕

薬剤効果に対する思考原理について、本稿では構成的実在論という立場を提唱する。構成的実在論では、事実を3つに分類する。

・客観的事実(真理)…①

・構成的事実(理論)…②

・主観的事実(認識)…③

なお、薬剤効果理論で問題となるのは主観的事実に基づいて記述される「現象」と「理論」の整合性の問題に帰結できる。構成的実在論の概要を下に示す。

 

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〔客観的事実(真理)〕

構成的実在論では真理の実在を認める。これは科学的実在論における戸田山の「独立性テーゼ」と「知識テーゼ」という2つのテーゼのうち「独立性テーゼ」を認める立場である。独立性テーゼとは戸田山和久氏が提唱する科学実在論の基本テーゼの一つであり、「われわれの知覚とは独立の世界があり、その世界との対応によって我々の科学的主張の真偽が決まる」と言うものである。(戸田山.2005)[1]。構成的実在論でも、客観的事実①は僕たちの主観的事実③とは独立に存在するという立場をとる。

また「知識テーゼ」とは「原理的に我々は、どの科学的主張が真であるかを知ることができる」と言うものだ(戸田山2005)。構成的実在論ではこの立場を積極的に擁護しない。知識テーゼは真理を説明しうる理論として構成的事実として扱うことになる。

〔構成的事実(理論)〕

構成的事実とは科学理論そのものである。構成的実在論では薬剤効果を考える際、薬理学理論、病態生理学理論、薬物動態学的理論、臨床疫学的理論はいずれも「理論」と言うカテゴリに組み込まれ、構成的事実に分類される。

つまり、客観的事実(真理)を説明しうる理論は複数存在する。(図1)にはA~Cまでの理論が例として挙げられているが、理論の数は原理的に有限個ではない。また複数の理論を組み合わせた複合理論としても存在可能である。例えば、薬理学理論+病態生理学理論のような複合理論が真理を説明しうる。

構成的実在論では理論は構成的である。客観的事実(真理)の世界をコトバにより記述するために原理的に分節恣意性の影響を受ける。分節恣意性とは言葉による世界の切り分け方の問題である。虹は日本語では7色であるが、rainbowは6色である。連続的な色のスペクトラムをどこで切り分けるかは、コトバの恣意的な分節能力による。したがってコトバにより記述された理論は真理のすべてに対応しているかどうかを原理的に判断できない。関心相関的に切り分けられた真理の一部を垣間見ているに過ぎない。

さらにその「関心」は理論を構築する社会集団のパラダイム影響下にある。パラダイムとはトマス・クーンが『科学革命の構造』で用いた概念である。(Kuhn.1962) 構造的実在論ではこのクーンのパラダイム論を支持することになる。ただし本稿では厳密な定義としてパラダイムという言葉を用いない。(クーン自身も『科学革命の構造』において、21種類の意味でパラダイムと言う語を用いていると指摘されている。)))))

構成的実在論でいうパラダイムとはいわゆる社会規範であり、文化的習慣や権威、教育や社会システムも含まれる広義なものととらえてほしい。こういった基本的な社会規範のもとで理論構築がなされる。複数理論があったとして、そのどちらを採用すべきかは、パラダイムの影響を相当程度受ける。つまり、社会規範に反するような理論は、それがたとえ真理と対応していたとしても構成されない。また影響下にあるパラダイムが変化することにより、理論構成は劇的に変化する。

理論は累積的に真理に近づくのではなく、あるパラダイムのもとで、つまり、その社会規範に合致するという前提のもとで、真理に対応しているであろう理論が、真理であると考えられているに過ぎない。真理との一致は原理的に確かめようがないという立場をとるため。「知識テーゼ」は擁護できないことになる。

なお同一パラダイムでも、どの理論を採用するかで意見が分かれることがある。これは『信念対立』として説明される

〔主観的事実(認識)〕

これは僕たちが知覚しうる認識そのものである。その知覚はコトバにより現象を記述する。つまり、現象は主観的事実に基づくが、ここにも分節恣意性が働くため、必ずしも認識と記述された現象が一致するわけではない。

現象をより良く説明しうる理論が暫定的な真理であると言えるが、現象からどの理論が真理と対応しているか決定することは原理的にできない。(デュエム-クワイン・テーゼ)

またどんなに成功しているような理論であっても常に訂正可能性を持つパラダイムの変化や新たな言語の創造により理論選択は大きく変化する。これは悲観的帰納法理論とも矛盾しない考え方である。

〔構成的実在論の基本テーゼ〕

概要をまとめておこう。

・どの理論が真理と対応するかは、そのパラダイムの影響下により変化する。

・理論や現象はコトバで記述される以上、分節恣意性が反映される。

・理論はパラダイムの変化や新たなコトバの創造で変化しうる。

・客観的事実は1つだけ実在するが、理論は無数に存在できる可能性を有する。

・現象からどの理論が真理と対応しているか決定することは原理的にできない

・理論はそれ故、常に訂正可能性を有する。

・科学史上において、数々の理論は真理と対応していなかったとする悲観的帰納法はこの理論に矛盾しない。

・真理と対応しているであろう理論はコトバによる世界の切り取り方とパラダイムに依拠しており、暫定的なものである。

・現象と理論の一致により科学的妥当性が担保される。

〔薬学領域への応用〕

構成的実在論の適用範囲はそれほど広くはない。現時点で自然科学、特に薬学領域における薬剤効果の認識論への応用を試みているにすぎない。「構成的事実」の存在があるのであれば、構成的でない事実、つまり客観的事実(真理)もあるのだが、その真理がそれ以上の意味を持たないのであれば、いっそのこと構成的事実のみで良いのではないか、と言う指摘もあるかもしれない。しかし、薬学領域のみならず自然科学の分野では、科学の方法論、つまり理論が、どれだけ客観的事実(真理)を説明しうるか、と言う問題設定は重要である。薬が効くのか、効かないのか、そういった事実があらかじめあることが前提で、薬剤効果を論じることができるからだ。薬剤効果が全て構成的事実に基づくのならば、そもそも薬剤としての存在意義に関わるのではないだろうか。理論は世界を説明しうるか、そこに科学の究極的な目標がある。構成的実在論は、理論の構成的側面をあらためて知ることで、客観的事実により近似できる理論を如何に構築すべきか、その思考原理となることを目指している。[2]

 

上気道炎に対する塩化リゾチームの薬剤効果について構成的実在論を足掛かりに考察してみよう。

客観的事実

▶リゾチームという物質は咽頭痛に効果が無い。

構成的事実

▶薬理学理論…①

リゾチームによる抗炎症作用は咽頭痛を改善する。(臨床的に意義のある効果を認める。)

※薬理学的理論では抗炎症作用というコトバでの効果を理論化している。しかし、リゾチームの生理作用は抗炎症作用だけではないかもしれない。どんなコトバを用いるかでリゾチームの生理作用という世界の分節の仕方が変わる。

▶疫学的理論…②

上気道炎患者にリゾチームとプラセボを比較したランダム化比較試験によれば、咽頭痛、症状の悪化、ともにプラセボと同等であった。(臨床的に意義のある効果を認めない。)

咽頭痛というアウトカムは、コトバにより記述される。リゾチームの生理作用とRCTの結果が完全に一致しているのか、それは良く分からない。これは特にポジティブな結果が出たときに注意すべきであろう。

主観的事実

▶上気道炎という症状

▶リゾチームを飲んで症状が改善するかどうか。(現象の記述は症状の改善度の多様性を生む)

 

多くの場合で構成的事実は複数存在する。(一つしかなければそれが近似的真理である)薬理学理論が重視されるようなパラダイム支配下では構成的事実①が優勢である。したがって、客観的事実は風邪に効果が無いにもかかわらず、薬剤が臨床で使用されることになる。

医療現場でリゾチームが大量に処方されているにも関わらず、多くの患者の主観的事実は「あまり効果が無い」ということであれば、現象としての薬剤効果は不明である。

そこで、臨床試験が行われたとしよう。その結果、上気道炎に対する効果はプラセボと同等だったという結果が得られる。この結果が真理を反映しているかは別として、多くの国民、医療者に共有されパラダイムに変化が起きると、構成的事実は②が優勢となる。

個々での議論において理論①が理論②より劣っていると主張したいわけではない。例えば、理論②において論文捏造が明るみに出たら、理論①が優勢になるかもしれない。また疫学理論には常に統計的エラー、あるいはバイアスが付きまとうわけだ。

ここで大事なのは理論が社会構成的に編み上げられている点、常に真理を反映していない点が挙げられる。真理の実在を仮定しないという方法も取れるが、そうなると、薬剤効果なんてなんでもよくなってしまう。つまりプラセボでも効果があるという構成的事実が優勢になれば、効果のある薬剤として使用され続けることになる。真理の実在を仮定し、構成的事実が常に訂正可能性を有する、という認識こそが肝要であろう。

薬剤効果の構成的実在論は現段階で、他の理論との整合性や類似点を含め、決して目新しいものではないし、また理論としての成熟度も甘く、矛盾をはらんでいることもあるだろう。しかし薬学領域において形而上学的な原論、つまり思考原理が存在しない現実を踏まえると、この理論成熟には一定の意義があるようにも思える。

〔注釈〕

[1] 戸田山和久 科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる

[2] ただし客観的事実が、カントのいう物自体とどんな違いがあるのか、と問われれば、それに対する明確な答えを持ち合わせていないのが現状である…。