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医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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[本の紹介]構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫)

池田清彦先生の構造主義科学論の冒険」を改めて読んだ。もう何回目だろうか。いまだ理解しているとは言い難いが、整理できたことを言語化しておく。

構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫)

構造主義科学論の冒険 (講談社学術文庫)

 

 僕の医療に対する考え方はこの本から多大な影響を受けている。構造主義科学論は科学実在論争の文脈で言えば明確な反実在論である。外部世界に究極真理の存在を認めず、素朴実在論を厳しく批判する。どちらかといえば、実在論にコミットせず、現象を救う理論こそが科学理論承認の唯一の条件とするフラーセンの構成主義的経験論(B.C.ファン・フラーセン1986)に近い立場であるように思う。構成主義的経験論を少しだけ紹介しておこう。

『一つの科学理論の承認に含まれる信念は、その理論が、『現象を救う』ということ、つまり観察可能なものを正しく記述する、ということだけである。』(B.C.ファン・フラーセン1986 p26)

 

『科学的活動とは発見するという活動ではなくむしろ構成する活動である、という私の見解、すなわち、現象に対して十全なものであるべきモデルの構成であって、観察不可能なものについての真理の発見ではない』(B.C.ファン・フラーセン1986 p28)

観察可能なものをいかに正しく記述するか、「経験的に妥当な理論を作る」それが科学の目的であり、観察不可能な理論に対して、その真のあり方を示すことは科学の範疇ではないというのが構成主義的経験論の根幹となる思想である。

『物理理論はたしかに、観察可能なものよりもずっと多くのものを記述する。しかし重要なのは経験的十全性であって、観察可能な現象を越えたところでの理論の真偽ではない。(B.C.ファン・フラーセン1986 p125)』

さて、構造主義科学論の冒険は科学哲学の本ではない。本書は構造主義科学論という思考の枠組みを使って、古代ギリシアから最新の素粒子物理学分子生物学までを改めて読み解くという試みである。さらに自然科学分野のみならず、社会科学分野まで適用の範疇を拡大すべく理論展開する本書の射程は限りなく長く、また構造主義科学論という思考の枠組みの適用範囲の広さに驚かされる。これを臨床医学に応用したのが構造主義医療論であり、名郷直樹先生が提唱されている。

池田先生は素朴実在論をまずは否定し、フッサール現象学を根底に、言葉の恣意性の原理を応用しながら科学論を展開する。現象は絶対であり、それはコトバで記述された観念として「私」の前に立ち現れる。構造主義科学論の基本的な枠組みは「現象」「コトバ」「私」である。

『確実に存在するのは、私、観念(コトバ)、現象、この三つだけです。ならばこの確実な三つの実在だけから科学を構築することができるはずだ。大げさすぎて、本当はあまり言いたくなかったんだけど、私が本書で試みようとしているのはそういうことなのです』(構造主義科学論の冒険p81)

例えば物自体という人の認識システムの同型を前提にしたカントの共通了解の仕組みに対して池田先生は

『大体現代生物学は未だに同種とは何かという問題を解決していない(構造主義科学論の冒険p94)』

と批判する。つまり”ダニ”と”人”で認識システムが異なるのは良いとして”人同士”であっても同じとは言えないということだ。こうなると認識論的には現象の解釈を巡り、そこにあるのは常に恣意性である。

『データというのは解釈体系にあわせて、いかようにも説明可能である』(構造主義科学論の冒険p52)

 コトバで記述された現象は不変の何かのように思えるが、

『コトバとは変なる現象から普遍なるなにかを引き出すことができると錯覚するための道具の一つなのです。』(構造主義科学論の冒険p70)

 

この世界で立ち現れる現象は不変ではあり得ない。ではどうやって僕たちは共通認識を持ち得るのだろうか。構造主義科学論では共通了解の根拠について、認識装置の同型を仮定することはナンセンスだと指摘する。

『私が知っているのは私の経験(現象)だけです。私はその現象についてあなたと同じ話をします。お話している間に、どうやらあなたもその現象を知っているように私には見えます。本当は私とあなたでは違う現象について話しているのかも知れません。しかし話せば話すほど、辻褄が合ってきて、私の中には、あなたもその同じ現象を知っているに違いないという確信が生じます。そこでたとえば私とあなたの見ている物自体は同じと考えれば、そこではじめて、③現象は同じ、①物自体も同じ、③だから①と③を結ぶ認識装置もおなじ、という話になるのです。』(構造主義科学論の冒険p95)

しかし、認識装置が同型と仮定しなくとも、君と僕とが見ている現象は同じに違いないという確信を抱くことができる。現象があり、それをコトバで記述するからだ。現象から同一性(コトバのシニフィエ)を引き出す構造が同じであれば、僕たちは共通了解を見出すことができる。印象に残った文章を引用する。

『科学というのは構造を記述することです。科学理論というのは構造のことです。最終的に正しい究極な理論というのはありません。より多くの現象を説明できる理論が、より有効な理論であると言えるだけです。』(構造主義科学論の冒険p113)

構造は僕たちの頭のなかにあるのであって外部世界に独立自存しない。しかし現象は常に外部からたち現れる。つまり科学理論は現象により常に訂正可能性を有する。

『現象をコードする同一性が見えないものであればある程、理論はその整合性を高めるわけです。逆にいえば同一性として措定したものの中に見えるものがあるうちは、見えるもの同士の関係式をよほどしっかり整えないと理論は破綻します』(構造主義科学論の冒険p134)

原子論は優れた理論だが見えない。だからこそ同一性を措定できるという事に他ならない。

『見えるものは現象であって、現象は時間を含むゆえ、同一性自体にはなり得ないのです』(構造主義科学論の冒険p134)

 

素朴実在論を仮定しなければ自然科学が成立しないという神話は全くデタラメです。素朴実在論者は論証もしないで、そのことを自明の前提として信じているだけです。素朴実在論を仮定しなくとも、科学は充分に客観的ですし、現象との整合性を検証されて、その理論構造は徐々に深化していきます』(構造主義科学論の冒険p154)

 

『現象の中に不変の同一性があるとの考えは、外部世界に不変の同一性があるという考えと同じくらいひどい錯誤です』(構造主義科学論の冒険p156)

 

素粒子物理学は現在観察できる現象を説明する理論として構想され、この理論はビッグ・バンという現象が起こったことを予想します。ビッグ・バンという現象を説明するために、素粒子物理学が作られたわけでは決してありません(構造主義科学論の冒険p208)』

素粒子物理学を薬理学、ビッグ・バンを臨床で起こりうる現象と置き換えれば、薬剤効果理論について、大切なことを見失っていると気付くのではないだろうか。

『科学理論を信じなければならぬ必然性はどこにもありません。理論は現象を作っているわけではなく、現象を説明しているだけですから、異なる理論が同じ現象をもっとうまく説明するかもしれません。(構造主義科学論の冒険p239)』

 

『現象の絶対性に比べれば、科学理論は相対的なものです。従って科学理論を盾に個人の恣意性の権利を侵害することは許されないのです。(構造主義科学論の冒険p242)』