思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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『理論』と『現象』

『科学理論は本質的に暫定的なもの、永遠に暫定的仮説であり続けるものなのである』(ポパーの科学論と社会論p16)

理論とは科学理論に代表されるように、つまりはこの世界を説明しうる究極の真理と言えるようなものである。例えば素粒子物理学における超弦理論相対性理論量子力学をつなぐ究極の真理という位置づけの中にある。しかし、それが世界の究極の真理であるかどうかは僕たちには確かめようがない。この世界を構成している採用単位が“ヒモ”であるかどうか、あるいは11次元だとか、そういった世界を僕たちは観察できないからだ。ただ、超弦理論を暫定的に真理として採用することで、相対性理論量子力学の整合性が取れ、この世界で起こり得る経験的事実、つまり現象をうまく説明することができる。ファン フラーセンの言葉を借りれば『現象を救う』[1]ことができるということだ。

しかし、こうした理論はあくまで現象を十全に説明しうる暫定的真理に他ならない。科学史を紐解けば、それまで究極の真理だと信じられてきた科学理論が全くの誤りだったという事例は数多く存在する。燃焼におけるフロギストン説、物体の温度変化におけるカロリック(熱素)説、“力”や“光”が伝播するための媒質として考案されたエーテル理論。生物学に目を向ければラマルクの進化論、天文学で言えば、天動説など挙げればきりがない。しかし、いずれの理論も現代科学においては究極の真理として認識されてはいないだろう。もやはすたれた理論、誤った考えであると、そんなふうに歴史の彼方へ葬り去られている。近年での事例を挙げれば、金属ナトリウムと水の反応メカニズムはクーロン力によるものであって水素爆発ではないことが示されており、[2]こうした理論転回は、あらゆる分野で今なお進行形なのだ。

理論転回が教えてくれる重要な示唆は、理論は暫定的真理であり常に訂正可能性を持つということに他ならない。とはいえ訂正された理論がまた真理に近づいているのか、そういったことは原理的にヒトの認識能力ではわからないこともまた確かであろう。ポパーの言うように反証の先に究極の真理があるかどうか、ということは人の認識能力ではわかるはずもない。[3]究極の真理と科学理論の一致を確かめるには神の視点が必要であり、それはもはや形而上学的な概念でしかない。ただ、ここで大事なのは、理論は経験的事実により反駁され続ける必要性そのものにある。

『観察とは理論的予測に基づく解釈・評価にほかならない。だから、理論的予測を前提として持ち、それを確かめるという目的をもっていてはじめて、それに適した観察と、観察結果の解釈・評価が可能になる』(ポパーの科学論と社会論p23)

基礎理論を学ぶことは重要だが、その理論的予測を確かめる、こうした批判的な態度こそポパーのいう反証的な態度であるし、薬学教育に徹底して欠けていた部分ではなかろうか。[4]科学は理論を試行的に案出した上で経験的事実により反駁しようと努める、そうした批判的合理主義という考え方は、臨床医学に関わるあらゆる情報の取り扱いに良くフィットする。

とはいえ、反証された経験的事実は、臨床医学で言えば統計学というコトバで記述されるため、必ずしも真実を示しているわけではないかもしれない。[5]だから、一度の反証で理論を放棄せよということにはならない。大事なのは、ラカトシュのいうような理論のコアに対して経験的事実により反駁し続けること、理論の暫定性をあらためて認識すること、情報は常に訂正可能性を有するということに自覚的であること。

『科学理論を信じなければならぬ必然性はどこにもありません。理論は現象を作っているわけではなく、現象を説明しているだけですから、異なる理論が同じ現象をもっとうまく説明するかもしれません。(構造主義科学論の冒険p239)』

理論が現象を説明するのではなく、現象を説明するための理論なのである。薬理学理論は優れた理論であり、薬剤効果という現象をなるほどうまく説明しているように思える。しかし、それはあくまで暫定的真理であり訂正可能性を有することは間違えない。血液サラサラ理論が動脈硬化性疾患を予防するのだろうか。気管支拡張作用が呼吸器疾患の予後を改善するのだろうか。血糖降下作用が寿命を延ばすのだろうか。薬理学理論から推測される現象が、疫学的研究が示す統計的事実による反駁に、どれだけ耐え続けられるか、そういう仕方で薬剤効果を考えていくことが大切なのだ。

 

[脚注]

[1] B.C.ファン・フラーセン1986

[2] Mason PE. 2015 PMID: 25698335

[3] では究極の真理など存在しないのか。僕はそんなことはないと考えている実在論者である。しかし、究極の真理は関心相関的に見え方が異なるという観点主義という立場だ。世界の真理の片鱗に科学理論は達することができるかもしれない。しかし、それは世界の切り取り方に過ぎないという意味では究極の真理を神の視点から俯瞰することはできないと考えている。ただそれでも究極の理論が存在すると思いたい。

[4] もちろん異論もあるかもしれない。それはそれとして、筆者の経験的事実はそう物語っているので、この事実は全部ではないにしろ、一部では確かに存在したということになろう。

[5]現象を記述した疫学情報は統計学的知見により支えられているがゆえに、常にαエラー、βエラーという2つの統計的過誤や、系統誤差と言うようなバイアスの影響が軽視できない。反駁に用いる経験的事実が必ずしも正しいことを示しているわけではないこともまた事実である。時に理論は現象の記述に生じうる不確実性を補完する情報となり得る。したがって大事なのは様々な経験的事実により理論を反駁し続けるその仕方あると言えよう。