思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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医療は人を癒せるのか

医療は人を癒せるかをテーマに拙文を掲載していただきました。僕の論考を含め6つの記事が掲載されている『地域医療ジャーナル』10月号の特別企画はとても興味深いです。現代医療の中で失われてしまったのは癒しの力ではないか、そういった観点[1]から組まれた特集ですから、僕の論点はちょっとずれてしまったかもしれません。

とはいえ、患者が医療に癒しを求めていることは、程度の差はあれ事実だと思います。医療を提供する側が失いつつあるもの、医療を受ける側が求めているもの、癒しと言うキーワードは考える程に意味深げな様相を呈してきます。

僕はこの論考で、人が医療に求める癒しの構造に迫りながら、そこにあるのはある種の差別的状況であることを指摘しました。とはいえ、差別的状況にこそ希望を見出す人も確かに存在するわけで、この状況そのものが善悪の二元論で語れるものではないかもしれません。しかしながら、世間ではどうにも希望ばかりが注目され、差別的状況がクローズアップされることはまずないと言って良いでしょう。医療に対する”期待”や”信頼”という関心が、こういった価値観形成に大きく寄与しているものと思います。

”差別的状況を生み出す医療が、癒しの力を取り戻すためには、患者が希望を見出すような仕方が必要ではないか”

僕はそう考えています。当ブログでも模索してきたテーマ、『思想的、疫学的、医療について』と大きくリンクする内容となっています。是非読んでいただけましたら幸いです。

医療は人を癒せるのか

~“医療化”に存在しうる「差別」と「希望」について~

地域医療ジャーナル2016年10月号 vol.2(10)

医療は人を癒せるのだろうか。例えば、病気の早期発見が”正しい医療のあり方である”、というような考え方は、「医療が人を癒すものである」という前提の上に成り立っている。こういった考え方が一般的というのであれば、多くの人が”医療は人を癒すもの”と考えているのかもしれない。身体的な不条理から解放してくれるであろう可能性を有する医療は、心身共に癒しを与えてくれるはずだと、しばしばそのような信念を抱いていることは自明のようにも思える。

 本稿では、医療の対象となる事態そのものに焦点を当て、医療に癒しを求めるその構造を考察する。そして医療が僕たちに何をもたらすのか、「医療化」という概念を用いて検討し、その帰結がある種の差別的なものであることを示そう。そのうえで、医療における価値判断に必要な原理とは何か、筆者の愚見を述べたい。

続きは地域医療ジャーナルで!

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[脚注]

[1] 癒し手としての医者.地域医療日誌. 2016-04-29 http://www.bycomet.tokyo/entry/healer