思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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我思う、ゆえに我あり。 なぜ自分は自分でしかなく、他人ではないのだろう

 科学的なコトバで記述された世界像が、事象の真理を表しているわけではない。確かに予測や制御を可能にするという観点からすれば、妥当な世界像かもしれない。しかし、そこには人の心的な、あるいは認識的な側面が抜け落ちている。これは例えば戦争をゲームのコトバで記述するのと同じことだ。

  コトバが指示している何かは、この世界の全てじゃないし、それはヒトそれぞれの考え方についても言える。コトバを挟むこと、それにより僕たちが失うのは他者への理解可能性である。「分かり合える」なんてことは極言すれば幻想に過ぎない。僕たちは他者を絶対に理解することはできない。「(誰かの)思考」は厳密に言語化できないし、一部の思考がそぎ落とされたコトバもまた、違った仕方で「(僕の)思考」に取り込まれていく。思考の中に構成される概念は、それを名指そうとするコトバを超えて力を持っていることに自覚的であるべきだ。

  例えばヴィトゲンシュタインのいう家族的類似は存在論的身分を有するのか、という問いを考えてみればよい。プラトンに従えば、それはイデアとして存するという事になろう。確かに目の前に赤い家、赤いバラ、夕日があれば、その実態の存在に、疑念の余地はない。仮にこれらは存在論的身分を有するとして、ではそこに見出される家族的類似としての「赤さ」とはなんだろうか……。

  おそらくその「赤さ」をコトバで普遍的に定義づけることは困難であろう。この場合の「赤さ」は、食べ物を食べたときの「おいしさ」と本質的に同義であり存在論的身分を有さず、コトバを超えた何かを持っている。コトバとそれが指示する実体の存在論的問題は、正しさとか、正義を考えるうえで深刻な様相を呈してくる。僕たちが思考する「正しさ」も、「赤さ」や「おいしさ」と同じくコトバを超えた力を持っている。

  この世界を思考する最後の装置が脳であるかぎり、僕らは脳の認識能力を超えた世界像を把握することができない。ナメクジにはナメクジの、鳥には鳥の世界像があるように。人間はハイデガーの言うように「世界内存在」にすぎず、人間よりもはるかに高等な知的生命体からすれば、僕らの科学や正しさなんて、迷信の類いと変わらないかもしれない。とはいえ、僕たちは事象の真理であるとか、正しさの基準のようなものがないと不安になる。

  曖昧さを受け入れられない………。確かな答えが欲しい………。つまるところそういった不安は、デカルト的不安といってもよい。しかし、僕は思うのだ。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明であるとしたデカルトの有名なテーゼ「我思う、ゆえに我あり」絶対的確実な正しさをここから始めることが、果たして本当に妥当なのかと。

我思う、ゆえに我あり。 なぜ自分は自分でしかなく、他人ではないのだろう(P.A.WORKS.Charlotte.2015) 

 とあるアニメーション作品に出てくるセリフであるがとても示唆深い。「自分は自分でしかなく」というのが妥当なテーゼかどうかはさておき、自分は少なくとも他人ではない。他人の考えている「正しさ」は自分にとっての「正しさ」ではない。「正しさ」は「赤さ」や「おいしさ」と同様、絶対的な基準など存在しない相対的なものだ。しかし、こうした考え方を推し進めていくと、僕らは相対主義的な枠組みに捉えられてしまうかもしれない。なにが正しいなんて、そんな基準なんてないから、なんでもありだな、という相対主義は、大切なことを見失っている。

 人がそれぞれ正しいと確信する何かは確かにあって、僕らはそれをよりどころに生きている。人それぞれの物語……。多分、それが人それぞれの正しさの根源である。デカルトの言うように懐疑の果てに最後に残るものが絶対的な「正しさ」なのかもしれない。しかし、自分の物語まで疑って生きることに何の意味があるのだろう。絶対的な正しさは存在しないけど、物語なしにも僕たちは生きられない。そうではないか。

  自分の物語を基盤に価値判断を行っていく考え方は、時に自己文化中心主義などといわれる。自文化中心主義というと、自文化を最高のものとして他文化を否定したり、排除したりするイメージがあるが、リチャード ローティのいう自文化中心主義はそうではない。ローティのいう自己文化中心主義は自文化至上主義ではないのだ。

 自分自身が何かを見る時には、必然的に自文化という立脚点から見るより他ない。これは人は程度の差はあれ、関心相関的に世界を把握すると言い換えても良い。そして、自文化という物語、関心に基づく物語には常に可謬性が付きまとっていること、そのことに自覚的であれば、「正しさ」の出発点としては十分に妥当なものになり得るし、目の前に開ける世界はもっと豊かになる。こうした出発点は、デカルトのそれよりも、よほどリアルなものではないだろうか。