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幻想としての〈私〉: アスペルガー的人間の時代

本稿は、先日書いた自分の記事に対する批判とも言える。

syuichiao.hatenadiary.com

大饗広之さんの「幻想としての〈私〉: アスペルガー的人間の時代」を読んだ。

幻想としての〈私〉: アスペルガー的人間の時代

 本書の学術的内容については賛否あるのかもしれないが、精神科領域を専門としない僕にとっては大きな衝撃があった。

 先日の記事でも述べたように、人はそれぞれの物語を生きている。それは生きるための確かな根拠としての物語であることに、一般的には疑念の余地は少ない。いわゆる定型発達とは、一つの自分になる過程のことである。それはつまるところ、大きな物語に符合する一つの物語、これはアイデンティティとも言えるが、そこに収斂し、それ以外の物語を排除することでもある。従って物語の複数性は許容されない。これが「ふつう」と呼ばれるものであった。

 

[プロメテウス的移行の日々]

  しかし、現代社会において、既に中心となる大きな物語は失効している。少し考えてみれば分かると思う。僕らは程度の差はあれ、コミュニティにより物語を使い分けているはずだ。それは時に「キャラ」と呼ばれる。こうした物語の複数性は、主体の多重化を要請する。

 そして、大きな物語が存在しない現代社会において、主体の中心もまた存在しない。小さな物語を環境に合わせながらすり替えていくうちに、主体もすり替えられていく。これは決して解離性同一性障害というわけではない。それはコミュニティに応じキャラの設定を変えていく感覚に近い。

中心のないまま、多元的モードのあいだを推移していく移行を…(中略)…「プロテウス的」と称することにする。…(中略)…たんに多元的であるというのではなく、そこでは本来の姿(中心)が脱落している、いや、むしろ中心がはっきりしないために、さまざまなモードに変換していかざるをえないというのがその本質なのである(幻想としての<私> アスペルガー的人間の時代P43)

 程度の差はあれ、継時的に現れる多元性、つまりプロメテウス的移行を僕たちは常日頃、経験しているとは言えないだろうか。そして、そこに在る<私>とは何か。

 

 [「ふつう」/「異常」の間]

 アイデンティティを保とうものなら社会生活すらまともに営むことができないのが現実である。主体の複数性はすでに社会から要請されていると言っても良い。デカルトの言う「我思う」という”我”はすでに幻想となっている。自分が自分でしかないのではなく、自分は自分でありそうでないかもしれず、また他者そのものでもあるという感覚。リアリティーとファンタジーの境界、あるいはアイデンティティという名の自己斉一性の維持、ふつう/異常の区分はこの辺りにあるということこそがもはや成立しない。

じつは迷路に入っているのは「ふつう」ないしは「現実」のほうなのである(前掲p6)

 アイデンティティの確立こそが定型発達、正しい生き方と考えられてきた。しかし、これは考えてみれば実に奇妙な話だ。内部、外部世界を分節していくというその仕方に、あらかじめきめられた基準があるわけではないし、どちらかと言えば動的な平衡状態にある。内部世界の確立と外部世界の遮断………。これがうまくできない人を異常とする枠組みそのものが、もはや機能しない。

われわれの経験する世界は、じつは多数の物語(小世界)の寄せ集めであって、どのパースペクティブをとるのかによって現実的(中心)/非現実的(周縁)という差異がもたらされる。現実の現実らしさは真か偽かというよりも、むしろそこにどれほどの価値がおかれるかに拠っており、これまで「現実らしさ」の頂点におかれていたのが、たまたま「大きな物語」(リオタール)ないしは科学的パラダイムだったというのにすぎない(前掲p11)

 

 [幻想としての<私>を受け入れる時代

 例えば現代社会において、『学校の教室』という大きな物語はすでに失墜している。そこから前景化していくのは『友人グループ』という小さな物語だ。グループへの執着は自己の内的一貫性を押し殺し、多元的人格モードの獲得を脅迫的に促す。これこそがアイデンティティの喪失であり、いわゆるランチメイト症候群はこうした状況を現象化されたものに他ならないのではないか。

最近の青年たちは、みずからの「内なる多元性」を意識するのにもはやエポケーといった操作を必要としない。「中心の無い時代」には、本来の多元性がそのまま露呈しているのである(前掲p43)

すでに、ふつう/異常の境界が存在しないということが自明のこととして前景化している。

少し前までは一つであること(アイデンティティ)こそが「ふつう」の称号であり、それを手にしない限り未熟あるいは異常とみなされていた。それが今ではオリジナルな自分(時間的同一性)などにこだわっていると、共同世界から疎外されてしまいかねない。しかしそうかといって対他的同一性に身をゆだねてしまうと、…(中略)…他者に振りまわされることになる。(前掲P52)

『つまるところ「私が一つ」だったのかどうかはだれにもわからない。われわれはもともと一つという先入観、すなわち「大きな物語」/「一つの自分」を前提としていたために現象をつかみそこねていたのではないか』( 前掲 p81)

「社会的現実を重視するなら自分らしさを失い、みずからの内的一貫性に従うならば、他者のまなざしに順じてばかりもいられない」(前掲p110)

  アイデンティティとはこうした矛盾の上に編み上げられた概念であった。従って同一性を保つこと自体にある種の無理があったのだと思う。人とつながるために自己の一貫性を放棄し、プロメテウス的にならざるを得ない現実がある。逆に、自分の一貫性にこだわっていると、共同世界との間の情報処理が複雑になり、関係を遮断し自己世界に引きこもっていく。

 ふつう/異常の境界が崩壊していることがもはや自明となっている現代社会で、それでもアイデンティティを基盤に編み上げられた<私>のイメージは、いまや多元化する渦の中に巻き込まれている。それは誰でも「幻想としての<私>」を受け入れていかねばらない、そんな時代の到来なのかもしれない。