思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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薬剤効果の価値判断をめぐる時間割引

 新曜社のワードマップは個人的に好きなのだが「心の哲学」が出版されていたので読んでみた。

心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (ワードマップ)

 本書は入門書とは言えないけれども、重要なキーワードがコンパクトにまとまっていて、繰り返し参照するにはとても重宝する構成となっている。もともと「心の自然化」というテーマに関心があったので興味深く読むことができた。そのすべてを理解したとはとても言えないが、本書を読んでいて、新たに興味が出てきたのが「時間割引」という概念だ。

 意志と欲求の葛藤状態において欲求に抗うのが難しいのは、欲求や情動の動機づけが過剰である場合もさることながら、そもそも私たちが価値の時間割引(time discounting)の傾向性をもっていたり、限られた認知資源の誘惑にたえることで消耗してしまったりするからだと考えられる(心の哲学 P213)

  時間割引とは報酬が手に入る時点が今からどれくらい先かによって、その報酬の価値を割り引く傾向のことである。人の価値判断には将来の 1 万円は今日の 1 万円の価値をもたらさないという「時間による割引」という現象が見られる。時間割引という概念は心理学のみならず行動経済学でも取り扱われるテーマであり、時間軸における選好の逆転現象をこうした割引で説明するケースが多々ある。

  このような価値の時間割引は薬剤効果をめぐる価値判断にも大きな影響を及ぼしているように思える。今起こっている不快な症状を緩和するというベネフィットと、将来的にもたらされる有害事象リスクを価値の時間割引の概念で捉えてみれば、将来的なリスクは軽視される傾向にあるともいえる。薬剤のリスク/ベネフィトをバランスよく考えることは、実は専門家である医療従事者でも相当困難なことなのかもしれない。ここに判断の合理性は存在しないのである。

 また、スタチンのような慢性疾患用薬のアドヒアランスがあまり良くないこと[1]も、あるいは薬剤効果の価値判断に時間割引という傾向が影響しているのかもしれない。将来的な心血管リスクを低下させるというベネフィットよりも、今現在起こり得る副作用リスクを重視したり、服薬の手間やコストを重視してしまうのは、単に真のアウトカムという概念の認識欠如のみならず、こうした時間割引の傾向があるのではないだろうか。

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[引用文献] 

[1] Naderi SH.et.al. Adherence to drugs that prevent cardiovascular disease: meta-analysis on 376,162 patients. Am J Med. 2012 Sep;125(9):882-7. PMID: 22748400