思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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言葉の魅力と文章の価値について

 だいぶ遅くなってしまいましたが、新年あけましておめでとうございます。2018年が始まりました。毎年、このブログにも年頭所感のようなものを書いていたのですが、今年の年末年始はある書き物に集中しておりまして、ついついブログ更新をさぼってしまいました。

  これまで薬剤師という立場で、様々な分野とのコネクションをテーマに、その思考の枠組みを言葉にしていく仕事をしてきたように思います。このブログは「医療」×「哲学」というのを一つの目標に掲げていますけど、昨年は文学とのコラボレーションなんてものを少し模索してきました。

[この道一筋からは何も生まれないのではないか……]

 さて、普段はほとんどテレビを見ない僕ですが、年始恒例の箱根駅伝は母校も出場する機会が多いせいか、ついつい見てしまいます。今年の総合優勝校、青山学院大学の原晋監督が優勝会見で述べていたことがとても印象的でした。

『陸上界を盛り上げたい。ライバルは早稲田、駒沢、東洋、東海ではないんだ。サッカー界、野球界なんだ。多くの若者にこの箱根駅伝を通して長距離を志してほしい』

 これを聞いたとき、薬剤業界も同じだなと感じたのです。薬剤師の魅力というのはおそらく、薬剤師ではない業界にこそ目を向け、そこを通じて改めて自分を見つめ直すという仕方で高めることができるのではないかと思います。「この道一筋からは何も生まれない」師匠の言葉が頭をよぎりました。

[最終的に出力するのは言葉である]

 薬学一筋では創造力に欠ける。だからこそ僕は様々な領域の学問に興味があり、そうした学問的内容と薬学をコラボレーションさせたいと考えています。そもそも学問領域を理系と文系に分節すること自体が非常にナンセンスでしょう。それは医療において、薬学や医学とその他の学問と分けてカテゴライズすることにもいえます。

 ただ、最終的なアウトプットとしては言葉に落とすという作業が重要なタスクなのかなとも思っています。理系と呼ばれる学問分野にしろ、文系と呼ばれる学問分野にしろ、情報やコンテンツとしてより多くの人と共有するためには言語化が必須だからです。

[言葉の魅力について]

 言語化、すなわち文章を書く行為はとても魅力にあふれています。例えば、言葉の使い方一つで、文章に含まれている情報は同じでも、その伝わり方の印象が異なっていくことがあります。その伝わり方を想像しながら文章を書いてみる、そうした試行錯誤の中に、僕にとって何物にも代えがたい魅力を感じるのです。以下の①~③の文章を見てください。

①僕は数学が好きな中学生である。

②僕は中学生にも関わらず、数学が好きである。

③僕は中学生のくせに数学が好きだ。

 ①~③はいずれも「僕」について「数学が好き」という同じ情報を提供しているのにも関わらず、その印象が全く異なりますよね。②は中学生は数学が嫌いなもの(あるいは苦手な物)というような意味合いを前提としています。③は中学生に対するある種の偏見なようなものが込められているように感じます。言葉は、その使い方で伝わる情報の印象を変えることができるんです。

 

  また、正しい情報を伝える文章が必ずしも価値のある文章とは限らないというのも興味深い点です。例えば、以下の①~④の文章の真偽について考えてみましょう。

①明日は晴れか、雨か、雪か、曇りである。

②明日は雨は降らない

③明日は晴れのち曇りである。

④明日の午後15時には晴れ間が見えるが、16時には曇りとなる。

 ①~④の文章において、正しい情報を伝えている可能性が極めて高いのは①でしょう。おそらくヒョウでも降らない限りは①の文章は「真」です。また、②の文章も雨さえ降らなければ正しい情報を示している「真」の文章になるでしょう。

  しかし、どうでしょうか。②はともかく、少なくとも①の文章に何か価値を見出すことができるでしょうか。僕らはたとえ「真」の情報を示している文章であったとしても、そこに価値や魅力を抱かないことが往々にしてあります。①の文章は端的に「無内容」なのです。それは言葉の上だけの真理であり、経験的な真理とは程遠いものです。

  他方④は実に反証可能性に満ちた文章です。常に誤りうる可能性が大きい。14時に晴れ間が見えた時点で「偽」の情報となってしまいます。それにも関わらず、僕たちは①の文章よりも④の文章に価値を見出すことでしょう。文章は真理を表しているかどうかよりも反証の可能性がより大きいほうが価値があるし、美しいく見えるときがある、そうはいえないでしょうか。

[言葉の不思議から思考の様態へ]

 言葉は不思議です。文法のようなちゃんとした規則があるのにそれを逸脱しても伝わる何かがある。僕らがその何かに手を触れようとしたとき、その何かにも規則があるように思えるけど、その規則をうまく言葉にできない。

  言葉ではほとんど何も伝わらない、時にそう感じることがあります。それは決して言葉を信頼していない、というようなネガティブなものでは無くて、言葉というのはそれを使おうとするほど、難しい技術であるということに気付いたりするんですよね。

  言葉に関する分析的考察は人が何をどのように考えているかを明らかにさせる。だから僕は言葉に興味があります。「世界」を言葉にしていく作業はとても魅力にあふれています。

 『言葉は無時間で、時間的な経験に対して圧倒的にreduction された情報量しかないのだけど、一撃で経験の流れを変えてしまうことがある。@kazeto_bot

 今年1年、どうぞよろしくお願いいたします。