治療の無益性とは何か―相模原障害者施設殺傷事件と健康増進を巡る考察
もう薬はいりません……という価値判断。終末期における治療継続をめぐる問題や、ポリファーマシーの是正というテーマに向き合うことは、こうした臨床判断の是非について考えることでもある。医療財源が枯渇する現代社会において、”無益な治療”を継続するメリットは患者にも社会にもないという考え方には一定の説得力がある。
確かに80歳を超える高齢者に対して不適切と思われる薬剤が多く処方されている現実はある。しかし、“希望を捨てずに治療しよう”という考えた方と、“もう先は短いので治療は不要”という考え方との境界はどこにあるのだろうか?
死を受け入れることは、すなわち生を放棄することに他ならない。それを臨床の現場で“尊厳死”などと呼ぶことに僕らはあまり違和感を覚えないのかもしれないが、ここにはある種の差別的な思想が含まれているように思われる。
【「生きること」と「生活すること」の差異】
「生きる」と「生活する」の違いについて考えてみる。「生きる」というのは生物学的な範疇で考察が可能だろう。呼吸をして心臓が動いて全身に血液が循環して細胞が分裂を続けながら生体反応を維持すること。もっと詳細に分析すれば分子レヴェルで生命活動を語ることもできよう。他方で「生活する」とはどういうことだろうか。
「生きる」と「生活する」の違いを「寝たきり」という状態を例に考えてみよう。寝たきりであろうが確かに人は生きている。しかし、ナイーブな感覚によれば、そこには「生活する」といった要素は希薄化している。少なくとも寝たきりでない人の“生”に比べて、寝たきりの人の“生”には何か欠けているように感じられるのではないだろうか。
寝たきりという状態にポジティブな価値を見出すことは一般的には難しいかもしれない。とはいえ、寝たきりではない状態とのギャップを端的に言語化することは難しい。「生活する」から「生きる」を差し引いた後に残るものは何だろう。それは生に対する“価値”なのだろうか。
あるいは、こう問い直しても良いかもしれない。僕らは、「寝たきりになったらどうするのか」と「寝たきりにならないためにどうするか」というテーマについて、どちらにより関心があるだろうか。一般的には後者に価値を見出すことだろう。“寝たきりになったらどうするか”よりも、“寝たきりにならないためにどうすれば良いか”という問いに対する答えの方が重要であると……。
しかし、後者に価値を見出すのは何故だろうか? 寝たきりになってしまったら生きる価値はないと考えているからだろうか? そうであればやはり、寝たきりの人は「生きている」けれども「生活する」という観点で見れば何かが欠如している、生きている価値が割り引かれているように感じられるのであろう。そもそも生きる価値とは何だろうか。生活を「疎外」されている状態は本来の「生」ではないのか? 本来の生とはいったい何なのか?
【健康増進と優生思想】
寝たきりと言われる状態にも階層、つまり程度がある。例えば上体を起こすことができる、車椅子に移乗できる、嚥下が良好で食事が介助なしで摂取できる、会話が可能で意思疎通が問題ない、寝返りが可能、といったレヴェルから、意思疎通困難、自身で寝返りがうてない、嚥下困難な状態まで様々だ。
現代社会において、自殺や突然死を除き、人は程度の差や期間の差はあれ、寝たきりとなり死を迎える。前提として人は必ず死ぬということを踏まえれば、寝たきりにならないためにはどうすればよいのか? という問いに対する端的な答えは「突然死か、自殺をせよ」ということになる。
とはいえ、突然死か自殺なんて、あまりにも端的すぎる答えじゃないか、という異論もあろう。こうした議論を突き詰めていくと、寝たきりにも階層があるのなら、どんな寝たきりならよくて、どんな寝たきりならダメなのか? という問題に近づいていく。そしてそれは、どんな「生」なら生きる価値があって、どんな「生」なら生きる価値がないのか、というテーマと同義であろう。しかし、こうした問いの立て方はある種の危険性を帯びている。どういうことか。
【相模原障害者施設殺傷事件と健康増進、尊厳死の問題】
相模原障害者施設殺傷事件を覚えているだろうか。2016年7月26日未明、神奈川県相模原市にある県立の知的障害者福祉施設に、元施設職員の男が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺、入所者、職員合計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。犯行に及んだこの男は「障害者の命のあり方」について「彼らを生かすために莫大な費用がかかっている」「障害者は不幸をつくることしかできない」「障害者が安楽死できる世界を望む」と言ったような、「障害者はいなくなればいい」という趣旨の発言を繰り返していたことが報道されている。
“死んだ方が良い人間がいる”こうした考え方は優生思想に通じるところがある。優性思想とは「障害の有無や人種等を基準に人の優劣を定め、優秀な者にのみに存在価値を認める」という考え方であり、その思想的背景にはダーウィンの進化論がある。優秀な遺伝形質を多く残し、劣等なものは排除するのが望ましいとする優生学的な考え方が、ナチス政権によるユダヤ人大量虐殺を招くきっかけになったことを忘れてはならないだろう。
知的に優秀な人間だけに存在を許し、劣等者を排除することで、社会的な人的資源を保護するという考え方は、僕らが生きる現代日本において、到底容認できるような考え方ではないはずだ。では、人間の苦しみや健康上の問題を軽減することについてはどうだろうか。一見すると優性思想とはまるでかけ離れたテーマのように思われるかもしれない。健康増進、健康寿命の延伸という価値に対して、現代医療の関心はまさにそこにあると言っても良い。しかし、健康であることに生きる価値を見出していくという考え方は、健康でなければ生きる価値がない、控えめに言ってその価値が低下するということと同義であり、これは本質的には優生思想と変わらないのだ。
「健康的な生活を送ることが人間の本来の姿だ」と聞いてどう思うだろうか。永続的な障害を有する人はもはや人間の本来の姿を取り戻すことはできない。「本来性」という考え方の危険性について、國分功一郎氏は著書「暇と退屈の倫理学」で分かりやすく解説している。少し長くなるが引用しよう。
『〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならばそれは強制的だからである。なにかが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人間は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間あらざる者として排除されることになる。(暇と退屈の倫理学p172)』
あるいは尊厳死という考え方にも優生思想が垣間見える。尊厳死は、「生きること」と「死ぬこと」を比較して、「死ぬことの方こそ意味がある」「生きることに値しない命はすみやかに死んでもらう方がよい」という思想的背景に裏打ちされている。しかし、どんな生なら価値があるのか、という問いに僕らは明確な答えを与えることができるだろうか。どんな生にも生きる価値がある。ここだけは譲れない。
生きる「価値」に関心を当てると、相模原事件や健康増進、尊厳死との境界があいまいになっていく。健康増進や尊厳死という概念がポジティブな価値を帯びる一方で、それに対して行きづらさを抱える人たちは確かに存在する。
【生物医学モデルと生物心理社会モデル】
従来、疾患は病態生理学的な原因の結果として現れる身体症状と捉えられてきた。たとえば、糖尿病はインスリンに関する生化学的プロセスで記述することが可能であるし、また細胞や臓器レヴェルで生じる異常として記述もできるだろう。したがってその生化学的なメカニズムの異常を正常化すれば疾患も治癒すると捉えることができる。現代医療はこうした生物医学モデルという考え方を中心にして大きく発展してきた。
しかし、生物医学モデルによる治療の考え方と実際の臨床現場における臨床判断には少なからずギャップも存在する。生物医学モデルに基づく治療行為や予防行為が必ずしも患者の問題を解決しないことは実際の臨床では多々経験する。医学的に正しいことが患者にとって正しいこととは限らないのだ。
つまり、患者自身の病態生理学的な問題だけではなく、患者を取り巻く環境的要因、具体的には経済状況や対人状況、心理的ストレスなど、実際には様々な要因が複雑に絡み合って一つのプロブレムを構築しているといえる。医療を提供する際には、病態生理学や細胞学的なミクロレベルの問題だけでなく、社会、心理と言ったマクロレベルの問題も包括的に取り込みながら考えていく必要がある。そこで、疾患を生物医学モデルのような病因⇒疾患という直線的な因果関係ではなく、生物、心理、社会的な要因のシステムとして捉えようという生物心理社会モデルが提唱された。
【治療の無益性と生物心理社会モデルに宿る希望】
無益と判断される治療とは何だろうか。冒頭の問いに帰りたい。もう薬はいりません……という価値判断。少なくとも“無益な治療”なるものを生物医学モデルで定義することは困難であろう。あるいは“必要な治療”なるものも生物医学モデルで定義づけるとはなかなか難しい。無益にも様々な無益がある。生理学的無益、質的な無益、そして蓋然性で規定できる無益である。こうした無益を包括的に考えていくには、生物医学モデルでは限界がある。
治療が有益か無益かは生物心理社会モデルで捉えたときにようやく見えてくるような気もする。だがしかし、それはおぼろげなものにすぎない。そして生物心理社会モデルといえど、行きすぎれば、死を受け入れることが生を放棄することにすり替えられてしまう。生物心理社会モデルといえど、誰か一人の価値観だけが不当に重視される可能性が排除されたわけではないのだ。
ただ、生物医学モデルで捉えられていた終末期像には「医療の敗北」というようなネガティブな価値、つまり絶望の影が大きくのしかかるのに対して、生物心理社会モデルで捉えられた終末期像には、まだ残る温もり、そこにある微かな息遣い、そして残された思い出、と言ったような微かな希望が残されているのかもしれない。
【関連文献、関連ウェブサイト】
1)Engel GL. The need for a new medical model: a challenge for biomedicine. Science. 1977 Apr 8;196(4286):129-36. PMID: 847460
2)名郷直樹.在宅で最期を過ごすには
3) 松久 貴晴.Bio-Psycho-Social model
https://www.med.nagoya-u.ac.jp/general/img/uploads/2017/04/e74038da98bea146394ad1e5329a1f96.pdf
4) 松下 明.生物心理社会モデルと行動科学のまとめ.
医学書院/週刊医学界新聞(第2911号 2011年01月10日)
5) 「家族志向のケア(3) 「生物心理社会的アプローチ」とは」
6)Biopsychosocial アプローチ
7) spitzibara.「無益な治療」論とDNAR指示 地域医療ジャーナル 2017年2月号 vol.3(2)
8) spitzibara.オランダの安楽死 その最前線 地域医療ジャーナル 2016年11月号 vol.2(11)
9) spitzibara. 「無益な治療」論再考1:「無益」と「潜在的不適切」地域医療ジャーナル2017年05月号 vol.3(5)
10) spitzibara.「無益な治療」論再考2:「医学的無益」と「分配(レーショニング)」地域医療ジャーナル 2017年05月号 vol.3(5)
11) bycomet.誰にとって無益なのか?.地域医療日誌.2016.12.16
12) 現代思想2016年10月号 緊急特集 相模原障害者殺傷事件(青土社)
13) アリシア・ウーレット. 生命倫理学と障害学の対話--障害者を排除しない生命倫理へ. 生活書院 (2014/11/1)
14) 児玉 真美. 死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植.大月書店 (2013/8/23)