思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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過去とは何か。ー想起における解釈学的変形と物語りによる過去の言語的制作ー

 過去の出来事。それは確かに実在していると僕たちは確信しています。もちろん、過去が実在しなければ、今現在も存在しえないということになりますから、過去なるものが存在する(あるいは、した)ことは間違いないでしょう。

 しかしながら、過去そのものについて、僕たちはそれを手に乗せて眺めてみたり、過去の体験をリアルに、あるいは直接的に経験することはできません。できたとするならば、それは過去ではなく、単に現在と呼ばれるような何かでしょう。

  過去は存在する、というときの「存在」について、僕はずっと考えてきたような気がします。それは科学哲学における、理論的構成体の存在様式に近いと言えます。

 

  理論的構成体(theorical construct)とは原理的に知覚できない存在のことで、例えばミクロ物理学の対象である素粒子があげられるでしょう。電子や陽子、中性子を僕たちは手に乗せて眺めたり、直接的に触ったりすることができません。とはいえ、その存在を疑う人は少ないはずです。素粒子の実在という意味は、直接的な観察に依拠するものではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられています。

 あるいは『大学』という存在も理論的構成体の一つといえるかもしれません。僕たちは、キャンパス内にそびえる講義棟や研究棟、図書館などを指さすことはできますが、『大学』を指さすことはできないでしょう。大学とは社会制度の枠組みの中で構成される組織的存在であって、知覚対象ではないのです。

 

  過去は原理的に知覚できない、つまり過去は知覚対象ではない、という点において、過去の存在の意味は、物理学理論によって与えられる素粒子の存在の意味や、社会制度によって与えられる大学の存在の意味と同型です。では、過去とは、いったいどんな理論によってその存在の意味が規定されているのでしょうか。

『過去はわれわれの想起や物証から独立のどこかに「存在」するものではなく、社会的に公認された公共的手続きを通じて「生成」していくものと言えます』(歴史を哲学する p166)

 過去が僕たちの認識とは独立して存在するのではなく、社会に公認された公共手続きを通じて生成される、野家啓一さんは「歴史を哲学する」という本の中でそう述べています。

歴史を哲学する――七日間の集中講義 (岩波現代文庫)

 僕らは過去そのものにアクセスできない以上、過去は想起されるものでしかありません。野家さんが過去の存在論、認識論を語る際に前提としているのは、大森荘蔵さんの「過去想起説」と呼ばれる考え方です。

 『過去は想起から独立に客観的に存在するものではなく、想起を通じてのみ認識される、こうした考えを大森(荘臓)さんは端的に「想起過去説」と呼んでいます』歴史を哲学する p103

  想起を通じて過去が構成されるのだとしたら、それはある種の傾向性、ないしは指向性を持っているはずです。記憶の想起は、少なからず関心相関的に再構築されるからです。こうした過去の志向的な再構築を、野家さんは「物語の哲学」という本の中で、過去想起における解釈学的変形とよんでいます。

物語の哲学 (岩波現代文庫)

『「歴史的事実」なるものは、絶えざる「解釈学的変形」の過程を通じて濾過され沈殿していった共同体の記憶のようなものである』物語の哲学 p13

『意識的であろうと無意識的であろうと、記憶それ自身が遠近法的秩序(パースペクティブ)の中で情報の取捨選択を行い、語り継がれるべき有意味な出来事のスクリーニングを行っているのである』物語の哲学 p17

『記憶の中にあるのは解釈学的変形を受けた過去の経験だけである』物語の哲学 p18

『思い出は過去の出来事のありのままの再現ではない。それは経験の遠近法による濾過と選別を通じて一種の「解釈的変形」を被った出来事である』物語の哲学 p121

 つまり、意識的にであろうと、無意識的にであろうと、僕たちが言語によって記述をおこなうとき、そこには関心の遠近法が働いており、記録に値する有意味な情報の取捨選択がなされているということです。それはアーサー・ダントーが仮構した「理想的年代記作者」による線形時間の数直線状に配列された歴史的出来事記述とはまるで対称的なものであり、野家さんは後者を歴史の側面図と呼び、前者を歴史の断面図と呼んで峻別しています。

 

  大森さんの過去想起説は、あくまで個人の想起体験を基盤とした体験的過去に限定された理論ですが、それを歴史的過去まで拡張したのが、野家さんのナラトロジーともいえましょう。野家さんは体験的過去と歴史的過去をつなぐ鍵概念は『物語り(物語ではなく)であるとしています。歴史的過去において、体験的過去の想起に相当する営みが『物語り』というわけです。

『自然的出来事が位置価をもちうる人間的関心の文脈こそが「物語り」にほかならない。その物語りの中に位置価をもたないほとんどの自然現象は、出来事として認知されることすらなく、ただ過ぎ去っていくのみである 』物語の哲学 p315

『歴史的事実は、それ自体で「神意」や「運命」といった意味をもつものではありません。人生の意味や目的を決定するのがわれわれ自身であるように、歴史の意味や決定もわれわれ自身の手にゆだねられています』歴史を哲学する p80

 過去の実在は、歴史的過去を体験的過去に結び合わせ、それに知覚的現在に接続する「物語り」のネットワークの中で志向的に構成されるものというわけです。以下に野家さんの『歴史哲学テーゼ』をまとめておきます。

[歴史哲学テーゼ] 物語の哲学 p158

1) 過去の出来事や事実は客観的に実在するものではなく、「想起」を通じて解釈学的に再構築されたものである

2) 歴史出来事と歴史叙述とは不可分であり、前者は後者の文脈を離れて存在しない

3) 歴史叙述は記憶の「共同化」と「構造化」を実現する言語的制作に他ならない

4) 過去は未完結であり、いかなる歴史叙述も改訂を免れない

5) 「時は流れない。それは積み重なる(サントリー テーゼ)」

6) 物語りえないことについては沈黙せねばならない