思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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全体最適化された世界の構想【デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂】

 リン・マーギュリスによる細胞内共生説は、真核生物細胞の起源を説明する仮説として、その提唱以来、広く受け入れられている。この仮説によれば、ミトコンドリア葉緑体は、細胞内共生した他の細胞に由来するものである。とはいえ、ミトコンドリアと人との関係は必ずしも対等なものではない。真核細胞はあくまでミトコンドリアを取り込んだ側であり、「主/従」でいえば「主」なのだ。

 しかし、ユビキタス・コンピューティングの先に到来しうる「計算機自然(デジタルネイチャー)」は、こうした主従関係を消去する。そして、人がコンピューターのミトコンドリアなのか、コンピューターが人のミトコンドリアなのか区別のつかない世界を構築していく。

『デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡知を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装すること』(落合陽一 デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 p34)

『計算機的自然、すなわち〈デジタルネイチャー〉とは、人間中心主義を越えた先にある、テクノロジーの生態系である。そこでは〈人間〉と〈機械〉の境目、生物学と情報工学の業界を越境した自然観が構築されるだろう』(落合陽一 デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂 p205)

――人と機械、それはもはや種類の差ではなく、程度の差なのだ。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 デジタルネイチャー環境では、人と機械、物質世界(Material World)と実質世界(Virtual World)の間に、今までの工業化社会よりも多様な未来の形が起こりうる。その先にあるもの、それは『幸福な全体主義であり、落合氏はそれを全体最適化された世界』と呼ぶ。

 例えば、形がきれいにそろった全く同じブロックを積み上げ、巨大なピラミッドを作るのことは容易であろう。しかし、形も大きさも異なる野菜を積み上げて大きなピラミッドを作るのは難しい。これまで社会は規格化されたブロックの育成を奨励し、巨大なピラミッドの建造を目指してきた。最大多数の最大幸福とは言わないまでも、マジョリティがマイノリティを排除していく社会、民主主義とはつまるところそう言うことだ。

  民主主義による意思決定で焦点となるのは人間の数であり、多数決による意思決定である。そこには必然的にマジョリティとマイノリティの区分が生まれ、マイノリティは大多数を締めるマジョリティの意見に従わなければならない。

  しかし、多数決に依らない全体最適化による全体主義では、その全体にとって都合が良い選択肢が、個々の問題や一人一人に対して別々に選び出される。それは、不揃いの野菜を不揃いのまま組み上げ、巨大なピラミッドの構築を可能にさせることに近い。

  全体最適化による問題解決、それはきわめて全体主義的である。しかし、コンピュータによる全体最適化は、「死の概念」や「個人の幸福」といった人間の倫理観を超越している。人間が機械のように、そして、機械が人間のように振る舞う社会。デジタルネイチャーがもたらす環境は、全体最適化による意思決定を促すと同時に、障害者/健常者、高齢者/非高齢者などのカテゴライズを解体していく。