思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

カウンター カウンター

【書評】現象を救うのは科学か物語か?-『彼女がエスパーだったころ』

 宮内悠介さんの『彼女がエスパーだったころ (講談社文庫)』を読んだ。僕が読んだ宮内さんの小説は『ヨハネスブルグの天使たち (ハヤカワ文庫JA)』に続いて2冊目となる。

彼女がエスパーだったころ (講談社文庫)

 表題作『彼女がエスパーだったころ』を含む6編の短編に共通するのは、SFにもミステリーにもカテゴライズされないジャンル横断的なテーマを扱っていること。物語を一直線に流れていく宮内さん独特の時間遷移がとても心地よい。個々の物語で描き出される情景は、一見すると無機質だが、無駄なく丁寧に配置された言葉たちが、一瞬で読み手の心を連れ去っていく。

『景色は心に入ることなく、記号のように右から左へ通り抜けていく。ふと、自分の感性の磨耗が気にかかり、かつてそうしていたように、目の前の景色を文章化してみようと試みた。いくつかの常套句が浮かんでは消えたところで、匙を投げた』
(宮内悠介 彼女がエスパーだったころp218/沸点)

 歴史全体に意味を吹き込もうとする試み、そういう観点からすれば、科学も文学も同じようなところを目指してきた。科学的知識の解釈も歴史的事実の解釈も、客観的な出来事の発見というよりは、ある種の物語性を帯びて”構成”されている。そのどちらにもリアリティが含まれているにもかかわらず……。

 『医療においては厳密な根拠以上に、ある種の勘所のようなもの、たとえば良識にもとづく漠然とした社会的な合意の類いが肝要であるのかもしれない。

ーー少なくとも、それが他人事である限りは』
(宮内悠介 彼女がエスパーだったころp90/ムイシュキンの脳髄)

 僕たちがリアリティを感じる対象には大きく2種類ある。それは『客観的なコト』『成立しているモノ』だ。前者はしばしばエビデンスだとか科学的根拠だとか言われる。つまり客観的な出来事そのもののことである。

  他方で、『成立していモノ』とは何か。それは1+1=2のようなものだ。足し算という演算プロセスは、手のひらにのせて眺めることができるような客観的な出来事というよりは、僕らの認識の中で成立していモノであろう。だから成立しているモノには客観的な要素のみならず、主観的な要素を多分に含んでいる。情報の意味や価値が、それ自体で存立するものではなく、一定の目的連関のなかで生じていくのはこのためだ。別言すれば、“リアル”にはある種の『あそび』が存在すると言っても良い。客観的な出来事のみで“リアル”が構成されているわけではない。

  エビデンスを突き付けられた時、僕たちがそれに違和を覚えることがあるのは、エビデンスには『あそび』を消去する力が宿っているからなのだと思う。エビデンスは、時に人それぞれの頭の中で成立しているモノというリアリティを明確に否定する。その人がもっとも大切にしている信仰心を根底から突き崩すように。

  人は確かに信仰なしには生きられない。誰もがそれぞれのリアル、つまり人それぞれ固有な物語を拠り所にして生きている。だがしかし、僕はそれでも科学的でありたいと思っている。信仰対象を一度は疑ってみる。物語の内側で、その流れに身を任せるのではなく、その流れに抗って物語の外側に出てみる。それはとても大事なことだと思う。自身の物語を信仰し続けるかどうかは、前提を疑ってみてから決めても遅くはないのだから。

  人には物事をリアルだと感じられる閾値がある。ただ、その閾値は人それぞれで異なっている。だから、科学と非科学に明確な境界線を引くことは難しい。何かが科学的であると判断することが、人の解釈に存している限り、科学は非科学との境界線を明確に設定しえない。本作品は、そんな困難な線引きに挑もうとする。そして、読み手の僕たちは最後に知ることになる。科学と非科学との境界の間に立ちはだかっているもの、それは倫理のエッジに立たされた時に気づく、ある種のうしろめたさのような感情ではないかと。

  ライナー・マリア・リルケのような詩人たちのほうが優れた現象学者である、そう言ったのはドイツの若き哲学者、マルクスガブリエルだった*。

*なぜ世界は存在しないのか p140