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【書籍紹介】不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か

 我々がこの世界で何をなし、何を受け取るかは、「運」というものに大きく左右されている。しかし、あるべき行為や人生をめぐって議論が交わされるとき、なぜかこの「運」という要素は無視されがちだ。

 特にその傾向は、道徳や倫理について学問的な探究を行う倫理学に顕著である。それはいったいなぜだろうか。

 本書では、運が主に倫理学の歴史のなかでどう扱われ、どのように肯定や否定をされてきたのか、古代ギリシアから現代に至る人々の思索の軌跡を追う。そしてその先に、人間のあるがままの生をとらえる道筋を探る(「BOOK」データベースより)。

 

不道徳的倫理学講義: 人生にとって運とは何か (ちくま新書)

 

 ぼくたちは、何らかの「行為」とその「帰結」について、「意志」の付随を意識せずにはいられない。ある行為によって、良くない帰結がもたらされた時、その行為責任の帰属を意志の問題として扱うことができるからこそ、司法制度が成立しているといっても良い。しかし、良い・悪いにかかわらず、行為のすべてが意志に帰属していると明言できるだろうか。そこには何がしかの「運」のようなものが影響していないだろうか?

  思いがけなかった良い出来事が急に舞い込んできたとき、ぼくたちは「運が良い」と感じるだろう。あるいは何か不幸なことが突然起きてしまった時には「運が悪い」などと考える。運という要素は、意識的であろうが、無意識的であろうが日常の一部であることに疑いの余地は少ない。

 では、勉強もしていないのにテストで満点をとれたのは、運が良かったのか、それとも偶然の仕業なのだろうか……。そのように考えてみると、運や偶然、そして偶然の対極にある必然や運命という概念が、実は地続きであることに気が付く。

『「運」というのは出来事の重要性としばしば深く関係し、よいとか悪いといった価値を帯びるが「偶然」それ自体がそうした価値を帯びることはない』(不道徳的倫理学講義p20)

 ぼくたちは、「運がある」とは言うが「偶然がある」とは言わない。他方で、状況に応じて、「ただの運だよ」とも「ただの偶然だよ」とも言うことがある。

『「運」はしばしば「偶然」に置き換え可能である一方で、「運命」が「偶然」の意味を持つことは基本的にない。言い換えれば、ときに「運」は「運命」と同様に「必然」よりのニュアンスをおびることもあるが、どちらかと言えば「偶然」の領域に重心を置いた言葉だ』 (不道徳的倫理学講義p22)

 運がもたらす帰結というものは、人の意志とは独立した制御不可能なものであり、人知の及び知るところではない、という観点からすれば運命という概念に近い。つまり偶然の対極にある必然こそが運命ということだ。

 例えば、自分の生まれが不遇な環境だったとしよう。経済的に困窮した社会で、満足に食事もできず、生活インフラもない街で暮らしを強いられる。こうした境遇に生まれ育つことを、「運が悪い」つまり偶然がもたらした帰結と捉えることもできるし、「運命に他ならない」というような必然がもたらした帰結と捉えることもできる。

  運という言葉が表す概念と、偶然という言葉が表す概念が、その一部を共有しているように、偶然も必然も明確な仕方で区分けできるような概念ではないのだ。

古代ギリシア語には「運命」という意味合いを帯びつつ、「偶然」の領域に深く根をおろした言葉も存在する。「テュケー(Τύχη)」である(不道徳的倫理学講義p62)』

『人間には、テュケーの支配がすべて。先のことなど何ひとつ、はっきり見通せるものではありません。できるだけそのときどきの、成り行きに任せて生きるのが、最上の分別と申すもの(オイディプス王 977ー979 不道徳的倫理学講義p71)』

 オイディプス王の話の中ででてくる『テュケーの支配』とは、偶然の支配とも運命の支配とも訳すことができよう。この世界の成り立ちを偶然の側面から切り取るのか、それとも必然の側面から切り取るのか。どちらが正しい世界の記述なのかという問題ではなく、それは関心の向け方の問題なのかもしれない。

  従って、行為の良し悪しには少なからず運や偶然が含まれている。そして、この「含まれている」というのが案外大切だ。どちらも含まれているという中腰の姿勢。行為の帰結は偶然/必然、その両極に片寄っているのではなく両者の中間にある。それはつまり、意志とは偶然の一種であり、そしてまた必然の一種でもあるということに他ならない。

 日々の生活の中で、時に運命がもたらす必然性が際立ち、絶望を感じてしまうかもしれない。しかし、そんな絶望の中にも、偶然という微かな希望が宿ることもまた確かであろう。

『自分の力の及ばぬものを前に、賢者のごとく達観するにではなく、あくまでも手を伸ばそうと悪あがきする、神ならぬ人間ならではの姿である。そしてそこに、ある種の偉大さが宿る(不道徳的倫理学講義p339)』

『はかれないもの(計り知れないもの)はかないものがあってこそ、我々は絶望し、歓喜し、虚しさや意義を得る。はかないものは、はかないがゆえにこの現実の生にとって決定的に重要なのだ(不道徳的倫理学講義 p339)』

  道徳は自由な主体が、自らの意志に基づいて選択した行為にのみ責任を帰すことができるという前提の上に成り立っている。しかし、純粋に意志に基づいて選択した行為などというものが存在しないのは、偶然や必然の影響を鑑みれば明らかである(この点については中動態的考察も可能だ)。行為の帰結に対して道徳性を問題とするときには、より思慮深くなる必要があろう。

『道徳は現在、しばしば陳腐なお説教と化し、万人がこの現実の社会で当然果たすべき義務として受けとめられている。そして、道徳性への潔癖さそれ自体がときに、安全なところから他者を容赦なく叩きのめすための手段となっている(不道徳的倫理学講義p343)』

 道徳性と呼ばれるある種の正義を無自覚に振りかざすことは避けたい。だからこそ、ぼくは偶然と必然の微妙なバランスの上に行為の帰結が宿るということに意識的でありたい。

 

 本テーマと関連して、道徳的運と医療過誤の問題を取り上げた興味深い論文が報告されている。

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