思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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『正しさ』をめぐる問題―真理の探究はいかにして可能か?

 経験に基づく(偶然的な)知識から、必然的・確実な知識(理論体系)を得るためにはどうすれば良いのだろうか。デカルト以来、近代哲学の大きな関心は認識論へとシフトしていく。

 絶対確実な真理の探究において、カントは分析的(アプリオリ)な言明と、綜合的(アポステリオリ)な言明を区別することで、必然性を選り分けてきた。

 分析的な言明とは経験によらず決定可能な言明のことであり、述語が主語の概念のうちに含まれているような判断を分析的判断と呼ぶ。分析的判断は主語に含まれている概念をとりだすだけであり、ぼくたちの知識を増やすことは無く、ただ概念を明晰にする役割をもつだけである(演繹的推論に近い)。

 他方で、綜合的な言明とは経験によって決定される言明のことを指す。綜合的判断とは主語概念に本質的に含まれない情報を付け加える判断であり、それゆえ、僕たちの認識を拡張する(帰納的推論に近い)。

 米国の哲学者、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン(Willard van Orman Quine)は「経験主義の二つのドグマ(Two Dogmas of Empiricism)」【1】という論文で、分析的真理と綜合的真理を明確に区別することは困難であり、“有意味な言明は直接経験に分解可能である”という還元主義に対して否定的な立場をとった。

 

【分析的な真理は存在するか?】

 分析的言明は、端的には必ず真になるような言明のことである。クワインによれば、こうした言明には論理的なものと定義によるものの2種類があるという。

①論理的な分析的言明:結婚していない男はだれも結婚していない

②定義による分析的言明:独身男はだれも結婚していない

 ①の形式は論理的に正しく、必ず真となる言明であり、これ以上、検討を加える余地はない。問題なのは②の定義による分析的言明である。『結婚してない男』を『独身男』という言葉に置き換えることによって、①へ帰着するタイプの言明であるが、これが分析的(アプリオリ)に成立すると言えるだろうか?

 ②の言明を①に帰着させる場合、『独身男』と『結婚していない男』 が必ず同値でなければならない。クワインが問題としているのは、『結婚していない男は独身の男である』ということが、分析的に成立するのかということである。

  一般的に、「AとBは同義である」とは「「AはBである」が必ず真(分析的)である」ことを意味しており、同義性は「分析性」が前提となっている。これは、ある種の循環であり、概念を別の概念で説明する行為は分析的に成立しているとは言えない。つまり、『主語に本質的に含まれる概念をとりだす』ことは厳密には不可能なのだ。従って、分析的な真理なるものは存在せず、少なからず綜合的(アポステリオリ)に決定される側面を含んでいることになる。

 

【機能していない意味の検証理論】

 意味の検証理論とは、論理実証主義者により提唱された理論であり、『命題の意味とはその検証方法、すなわち実験や観察によって真偽を確かめる手続きであるとする説』のことである。つまり、言葉(命題)の意味を経験的に確証もしくは反証することだ。ちなみに分析的言明とはいかなる場合おいても確証されるという極限的場合であるともいえる。

  さて、ここからは薬の効果を例に意味の検証理論を考えていこう。『薬Aが心臓病を予防する』という言明は、『薬A』と『心臓病を予防する』が同値ではないため、少なくとも分析的真理ではありえない。臨床試験(ランダム化比較試験)は『薬Aが心臓病を予防する』という言明を経験的に確証、もしくは反証する手続きといえる。試験結果によって、実際に心臓病予防効果が示されれば、『薬Aが心臓病を予防する』は綜合的真理になり得るだろう。しかし、こうした意味の検証理論は実臨床で成功しているかと言えば、答えはノーである。

  2型糖尿病患者を対象に、HbA1cを標準値まで厳格にコントロールする治療と、ゆるめにコントロールする治療を比較して、心血管合併症を検討したランダム化比較試験【2】では、両群で合併症の発症に有意な差はなく、厳格コントロール群で死亡のリスクが有意に増加した。2008年に報告されたこの研究結果が、実際の臨床現場にすぐに反映されたかと言えばそうではない。米国内科学会(ACP)がこうした経験知を取り入れ、成人2型糖尿病患者の薬物療法に対するガイダンスを発表したのは10年後の2018年である【3】

『地理や歴史についてのごくありふれた事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や倫理に属する極めて深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である(クワイン;論理的観点からP63 経験主義の二つのドクマ6節)』

 “糖尿病は血糖が高い状態であるがゆえに、高い血糖値を標準的な値まで下げることによって、健常者と変わらない予後が見込める” というのは、経験から離れた知識体系の深部にある理論ともいえる。カントに倣えば分析的真理に分類されるものかもしれない(とはいえ、この理論もDCCTやUKPDSなどの臨床研究に裏打ちされた綜合的真理ともいえる。従って、やはり綜合的/分析的という区別は困難なのだ)。

  こうした知識体系はその周辺部で時に経験知と衝突することもある。厳格な血糖コントロールは予後改善どころか悪化の懸念さえあるという臨床試験結果は、まさにこれまでの知的体系の周辺部と衝突しうる経験知であろう。

 しかし、臨床試験の結果が知的体系を大きく揺るがすまでに10年以上の歳月が伴っている(いや、未だに変わっていないのかもしれない)。つまり意味の検証理論は少なくとも速効的には機能していないのだ(このとはまた、トマス・クーンのパラダイムシフトという概念を根底から揺るがす)。

  科学的根拠、いわゆるエビデンスが知識の信念体系と衝突した際、その体系の深部が直接的に変更されることは稀である。所詮は仮説にすぎない(二次アウトカムの結果ゆえに)と経験知を全否定することも可能だ。あるいは、UKPDSの結果を持ち出して、糖尿病初期では厳格な血糖コントロールが有用であり、依然として血糖値を下げる治療は正当化されると主張する人もいるだろう(デュエム-クワイン・テーゼ)。

 

【種類の差ではなく程度の差】

 クワイン『経験主義の2つのドクマ』という論文で主張しているのはドグマの否定ではなく、ドグマなき経験主義の提案である。それはある種のプラグマティズム的思想に近い。

 『認識論的身分の点では、物理的対象と神々の間には程度の差があるだけであって、両者は種類を異にするのではない。どちらのたぐいの存在者も、文化的措定物としてのみ、われわれの考え方の中に登場するのである。物理的対象の神話は多くの他の神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れの中に扱いやすい構造を見出す手立てとして、それが他の神話よりも効率がよいことが分かっているためである。(クワイン;論理的観点からP66 経験主義の二つのドクマ6節)』

  経験「措定物」を扱う言明という意味では、科学の対象は神話の対象と同じ地平にあり、種類の差ではなく程度の差であるクワインは主張する。そして、科学を信じることが科学的である理由を“うまく説明できるから”ということに帰着させる。

  このことはまた、いわゆる『トンデモ医療』と『正統医療』も、種類の差の問題とするのではなく、程度の差の問題と捉えることを可能にしてくれる。クワイン全体論の中に絶対的な「正しさ」が身を置く場所は存在しない。

 『正しい医療情報』という言葉をしばしば耳にするが、「正しい」「正しくない」という種類があるわけではなく、程度の差の問題なのだと考えると、窮屈な思考から抜け出せる気がしている。『正しさ』が人の価値観や大切な想いを否定するための武器にならないようにと、僕はそう思うから。

 

【引用文献】

【1】「経験主義の二つのドグマ」は以下書籍に収められています。

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

【2】N Engl J Med.2008;358:2545-59. PMID:18539917.

【3】Ann Intern Med. 2018 Apr 17;168(8):569-576.