【書籍紹介】原子力時代における哲学
原子力という技術に対する価値認識は、時代を通じてめまぐるしく変化してきました。広島、長崎に投下された原子爆弾、終戦から冷戦期における核の平和利用という構想、そして原子力発電所の実用化へと歩むエネルギー産業。しかしながら、原子力の平和利用神話は福島第一原子力発電所事故によって崩れ去ります。
反原発や脱原発というと、インターネット上では極端な意見や考え方が論じられることも多く、一部議論の中には、カルト的な方向性に走ってしまっている印象を受けることも少なくありません。そこに思慮深い考察があるか?と問えば、必ずしもそうではない点に違和を覚え、僕はこのテーマから少し距離をとっていたように思います。
原子力技術を人間が利用することそのものの問題について考えるということは、ほとんど行われていなかったのではないか? そのような問題設定で描かれる國分功一郎先生の「原子力時代における哲学」。
ともすると、カルト的な方向性へ走りやすい原子力技術の是非をめぐるテーマですが、國分先生は丁寧にそして慎重に議論展開していきます。
核廃棄物が出るし、コスト高であるから原発は廃止すべきだ、という議論でほとんどいいと思っています。ですが、ほとんどいいとは思いますけれど、それで本当に十分かというと何か違う気がするわけです。どこかに、何かを考えないようにしている問題があるんじゃないか。どうしてもそういう疑問が残ってしまう(P165)
気になるのは、誰でもすぐに口にできるような基準を持ってくることそのものの問題点です。そのような基準には「これさえ知っておけば脱原発を主張できるんだ」というドクトリンのようなものになってしまう危険性がないでしょうか。つまり、自分自身で考えないための支えになってしまう危険がないでしょうか(P267)
本書では、1950年代、原子力について考えていた唯一の哲学者、ハイデガーの「放下」というテクストを読み解きながら、技術と自然、技術と人との関わりについて精細に論じられていきます。客観的基準のみで原発推進を論駁することは思惟からの逃走に他ならない。原子力信仰への抗いが、脱原発という信仰に陥ってしまわないように。
そして、放下の対話篇から浮かび上がってくるのは、やはり中動態的な世界観でした。本書末尾に収載されている「意志、放下、中動態」は、主題とはややそれるのかもしれませんが、とても示唆に富む内容です。