思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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「ただ、そこに、いる」にふさわしい語りとは何か、その言葉とは何かー居るのはつらいよ

 『僕らは居場所を求める。居場所って「居場所がない」ときにはじめて気がつかれるものだ。本当にふしぎだ』(居るのはつらいよp55)

 「いる」ということには、少なからず不安が付きまとったりする。特に親しくもない人と、二人だけで「いる」場面を思い浮かべてみたらよいだろう。それは、ある種の「気まずさ」に似ている。だから僕たちは「する」ことで、「いる」に付きまとう不安や気まずさを紛らわす。大学時代、しょっちゅう煙草を吸っていたのは、あの教室に「いる」ことからの逃走を図っていたのだと思う。

 「いる」を真正面から考えることは少ない。僕たちは生きている限りにおいて、常にすでに「いる」存在だから。でも、「いる」に付きまとう不安が前景化してきたときに「いる」は無意識のうちに「する」を促していく。居るのはつらいから……。

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居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

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居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく) [ 東畑 開人 ]


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 『「現実」は基本的には心の栄養だ。現実から切り離されるときに、僕らは心を空転し、やせ衰えたり、肥大化したりしてしまう。だから、現実とふれあっていることは、心の健康のためにはとても重要なものだ。だけど、現実にはときどき栄養がありすぎる。消化しきれずに、お腹を壊してしまう。そういうとき、現実をちょっと遠ざけておくことは、助けになる(居るのはつらいよ p242)』

 現実は「する」場に溢れている。現実に与えられる役割の中で、人は充実感や責任感を覚える。時に希望さえ見出すことだろう。しかし、それは現実を遠ざける「いる」場があってこそ……なのかもしれない。

 「いる」場が完全に失われてしまうと、生きることそのものが辛くなる。栄養豊富な現実は決して温かいものばかりではない。消化しきれない心の負担に、冷たさや鋭い痛みを感じ、身体や精神に変調をきたしてしまうこともあるだろう。「いる」場を持たず、ただただ「する」を延々と続けることができるほど、人は強くない。だから「する」に疲れ果てた人は、「いる」場を求める。それはある種の依存に近い。

 『僕らは熱くも生きているけど、同時に冷たくも生きている。変わっていくことを目指しているときもあるけど、変わらないように注意も払っている。ほら、毎日が変わらないものであるように、僕らはとても気を使っているではないか(居るのはつらいよ p190)』

 変わるものと変わらないもの、そのどっちもが、ささやかな暮しには必要だ。変化がなければ希望は見いだせない。でも変わらずにそばにあるものが、とても大切だったりする。変化がないものが存在するからこそ、僕たちは「いる」ことができるし、変化に希望を見出すからこそ「する」ことができる。

 

 医療において、ケアは「いる」場所を提供することに近い。他方で、「する」を促すのはセラピーの範疇かもしれない。

『ケアが依存を原理としているとするのなら、セラピーは自立を原理としています(居るのはつらいよ p276)』

  ケアは他者のすべてを受け入れる。つまり依存先を作る。他方で、セラピーは依存先の変容を迫る。自立を促すとはそういうこと。

 自立は自分の問題を自分自身で引き受けなければならない。そこには痛みが伴うこともある。医療といえばセラピーをイメージすることも多いけれど、セラピーは、癒しの提供、苦痛の緩和とはむしろ対極にあるものかもしれない。むろん、人と人とのかかわりにおいて、ケアとセラピーを明確に区分できるようなものではなかったりする。ケアからセラピーへの移行、あるいは逆もしかり。

『ケアとセラピーは人間関係の二つの成分です。傷つけないか、傷つきと向き合うか。依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度、その都度、判断することだと思うわけです(居るのはつらいよ p278)』

 

 東畑開人さんの著書「居るのはつらいよ」を読みました。小説なのか、それともエッセイなのか、どちらとも区別しがたい文体は、学術書であることを忘れさせてしまいます。しかし、本書に込められたメッセージは、「人と人とがかかわることはどういうことか」という根本的な問いにつながるものです。

 「ただ、そこに、いる」に計り知れない価値がある。それはお金に換算できるものでもないし、エビデンスとして提示できるものでもありません。ただただ、風景の中に溶け込んでいる価値、その風景を、あるいはケアのクオリアを見事なまでに言語化した文章たちは、読み手の心を揺さぶっていきます。

 ケアの価値を考察していくと、日本における精神科デイケアの問題構造が浮き彫りになっていきます。ケアは依存を原理としているからこそ、それがビジネスになった途端に、「ただ、そこに、いる」に含まれている大切な価値が揺らぐ。

 経済学の言葉では語れないものが確かにある。官僚が納得するようなエビデンスにできないものがある。本書を通じて明らかになるのは「ただ、そこに、いる」にふさわしい語りとは何か、その言葉とは何かということ。「いる」を支えるために、僕たちは考え続けなければいけない。「居るのはつらいよ」ということに。