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医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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【書籍】高齢者のための高血圧診療-再び『副腎に求めよ』

『「本当はどっちがいいんですか?」って、「いや、本当にどっちがいいかなんてわかんないんだから」みたいなね。「本当」が出てくると、もうどうしようもなくなるんです』(高齢者のための高血圧診療P182)

 僕の師匠、名郷直樹先生の著書「高齢者のための高血圧診療」を手に取った。EBM関連以外で先生が専門書を書かれるのは珍しい。

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高齢者のための高血圧診療

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高齢者のための高血圧診療 [ 岩田 健太郎 ]


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 本書は「はじめに」にも書かれている通り、“高血圧の本でありながら高血圧の本ではない”。「高齢者」とか「高血圧」という言葉が基盤にあると、高齢者ではこうしたエビデンスがあって……、高血圧に対するこうしたエビデンスがあって……だから、こういう時には、こうした薬を使う、みたいなことになりがちである。むろん、それは非常にわかりやすく、実践知として有用なものかもしれない(診療ガイドラインのように)。しかし、本書はそうした専門書とは一線を画する。

 

――そもそも「高齢者」とは誰のことか

――そもそも「高血圧」とは何か

 

 そうした問いから始まる本書の言葉たちは、現代医療が相対している様々な問題に直面していくだけの力を宿している。

 

 名郷先生との出会いは2011年10月2日である。当時、僕は薬剤師として保険薬局に勤務していた。「チオトロピウムレスピマットで死亡が増える」と題されたブログサイトが目に留まり、関連する情報を集めていたら「EBM」というキーワードにたどり着いた。EBMに興味を持った僕は明治薬科大学で「EBMを実践するプライマリケア薬剤師になろう」という講座があることを知る。名郷先生はその第1回目の講義を担当されていた。

  慣れないワークショップスタイルのセッションで、配布されたスライド資料に奇妙なことが書いてある。

――「副腎に求めよ」

・どんな話だと思いますか?

・隣同士話し合ってみてください

  その日のセッションを終えた僕は「これはとんでもないことになっている」と確信した(副腎に求めよについては→副腎に求めよ。関心のない所にこそ重要なものがある。|青島周一|note)。

 

  高齢者といえば血圧が高い、脳卒中を起こしやすい、だから高血圧の治療をしなくてはいけないというイメージが先行する。また、いくつかのエビデンスは高齢者においても降圧薬の有用性を示しており、高血圧治療は高齢者の健康維持のための重要である信念を強固なものにしていく。

 患者の立場からしてみても、血圧手帳や家庭用血圧計の普及、マスメディアの健康情報などによって、高血圧に対する関心は加齢とともに高まっていくのではないだろうか。しかし、高齢者の予後は極めて多因子的である。余命に与えるインパクトを考えたときに高血圧という要素はそれほど大きくはない。

『80歳以上では、若年者と異なり、血圧によって寿命が縮むことはない』(高齢者のための高血圧診療P10)

『高齢者に心血管疾患死が多いのは、高血圧の影響より高齢の影響のほうがはるかに大きい』(高齢者のための高血圧診療 p17)

『いかに心血管疾患や寿命というアウトカムを設定して「高血圧が問題か・どうか」を検討しても、心血管疾患や死亡が多くの高齢者でいずれは避けがたいものになっているという現実があり、心血管疾患や死亡に対して効果があるとしとも、だからといって「すぐに治療した方がいい」とはいえない』(高齢者のための高血圧診療p20)

『高齢になればなるほど死因は多様化し、心、脳血管イベントをいかに先送りしても、結局別の原因で死んでしまう』(高齢者のための高血圧診療 p53)

  心血管死亡の因果パイモデル(Causal Pie Model:Rothman KJ,2012)を考えたとき、若年者と高齢者ではその中身が全く異なる。高齢者の因果パイモデルに含まれる高血圧の割合は若年者よりも相対的に小さくなっていく。したがって、加齢とともに血圧は上がるが、高血圧が心血管死亡に与える影響は小さくなる。死亡に対する因果パイモデルが加齢に伴い複雑化していくことは、高齢者のポリファーマシーに対する介入効果がはっきりしないことを考えると分かりやすいと思う。

  むろん、このことは診療ガイドラインの推奨とは異質なものかもしれない。しかし、ガイドラインの推奨の絶対的や普遍性は、ACC/AHAやESCの心血管疾患系ガイドラインの推奨事項の半分が専門家の意見で構築されているという事実に大きく揺らぐ(JAMA.2019;321:1069-80. PMID:30874755)。

ガイドラインの推奨は、いかにエビデンスに基づこうとも、作成者の概念に過ぎず、治療開始基準も降圧目標も、作成者の頭の中にある「実態なきお約束」に過ぎず、実際の患者さんで何が起こるかとは別の世界のこと』高齢者のための高血圧診療 p32

『論文結果がどうかということよりも、個別の患者がどう考えるかということのほうがはるかに大きい要素であることは間違いないと思います。論文結果自体はいかようにも解釈できるからです。そうした曖昧な結果に基づきながら、ガイドラインが「強く推奨する」ということこそが異常なことなのかもしれません』(高齢者のための高血圧診療p52)

『高血圧が実在しないように、治療効果も実在しない』(高齢者のための高血圧診療p58)

――薬の効果を「認識的」と「存在的」で考えてみる。

 名郷先生との共著の本を執筆することになったとき、先生はそのようにおっしゃった。

 ――相対危険で30%減るっていうんだけど、そんな効果はどこにも実在しない

  例えば、3年間飲み続ければ、風邪を30%予防する薬があったとしよう。3年に1回くらいしか風邪をひかない人にとってみれば、あまりにも小さな効果でしかないかもしれない。他方で、毎月か風邪をひくような人にとってみれば、それなりに大きな効果かもしれない。薬剤効果は常に「~にとって」という仕方でしか存在しないのだ。それはまるで意見の正しさが「~にとって」としか存在しえないように、絶対的で普遍的な価値を帯びていない。マルクス・ガブリエルが「世界は存在しない」といったように、名郷先生は薬の絶対的な効果や価値など存在しないという。

  確かにエビデンスに示されているのは、なにがしかの効果なのかもしれない。しかし、その効果は読み手の解釈や書き手の記述の仕方によって、どうにでも印象を変えることができる。たとえば、NNTが小さいことを治療効果が大きいと解釈するか、治療しなくても潜在的なイベントリスクが大きいと解釈するかは読み手の関心にゆだねられるだろう。また、論文結果の表現方法だって、特別なルールがあるわけじゃない。イベント発生率だけに注目して相対危険で表現しなくてはいけない決まりもない。イベントを起こしていない人たちの比でみてもいいし、その差をみてもいい。オッズ比で表現したってよいわけだ。

  高血圧も降圧薬の効果も実在しないのであれば、現代医療はいったい何と向き合っているのだろうか。患者の個別性が大事というのだけれども、個別という言葉を持ち出すとき、僕たちは何に関心を向けているのだろうか。

『世の中における個別性などというものが、もともと「個別の個人にある」と考えることがおかしいように思います。個別の患者が高血圧の治療を希望するといっても、大多数に流された、一般的で、平均的な世の中がそういわせているだけという面もある』(高齢者のための高血圧診療 p81)

 『医療を受ける以前に確固たる希望があるというのは、何かの偏りと考えたほうがいいのです』(高齢者のための高血圧診療p82)

  医療を受けるという行為に、純粋な能動性は存在しない。むしろ医療を受ける以前の患者個別の思いには受動性がかなり入り交じってる。國分先生の言葉を借りれば、受療行為は極めてカツアゲ的なのだ(國分功一郎医学書院2017)

『幸せの曖昧さを極限まで突き詰め、幸せのために生きているのではない、といえれば、だいたいのことは幸せといえるのではないか』(高齢者のための高血圧診療p97)

『基盤にあるのは「死」はコントロールできないということです。……ACPは死に方をコントロールできる思っているという間違った認識が基盤にあって、西洋医学も同じだと思うけども、「コントロールできる。コントロールしよう」というのがどうしてもある』(高齢者のための高血圧診療p180)

『いくらその治療が西洋医学的に効果ありとしても、その脇で祈る人のほうに関心が向いてしまう』(高齢者のための高血圧診療p188)

  師匠、名郷先生から学んだのは、「基盤」について、その前提をメタ的に俯瞰することだった。このことはまた、「副腎に求めよ」という言葉そのものといってもよいかもしれない。そういえば、「師を見るな、師が見ているものを見よ」なんて言葉があるけれども、僕はもう少し師を見ていたいと思った。そんなふうに言うと、もしかしたら先生に怒られてしまうかもしれないけれども(汗