教養とはいったいなんだろう。
身の回りにあふれかえる情報ですけど、そもそも情報ってなんでしょう。さしあたっては、文字や記号の羅列に意味を含むものと考えて良いように思います。意味不明な数字の羅列や、理解できない言葉もまた、そこに意味を見出そうとする限りにおいて情報と呼べるかもしれませんね。
さて、情報は知識の源泉とも言えそうです。知識とは「ある事柄について知っていること」ですけども、それはまた情報が生み出した人の信念です。ただ、情報と知識の関係性は一方通行ではなくて、知識を体系的に整理することで新しい情報を生み出すこともできそうです。情報を選んで集めて整理すること。 あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業をキュレーションと呼びますよね。
このように、情報と知識は相互に影響しあう関係といえますけども、知識とよく似た言葉に知恵があります。知識と知恵の違いってなんだろう。ここ最近、僕はこの差異を考えてきたように思います。
知識は情報の解釈なので、それ単独ではあまり個性を感じないんですよね。もちろん解釈は人の関心によって様々なので、同じ情報でも知識は多様なのですが、何せ他人の頭の中にある知識を直接うかがい知ることはできません。知識がどうたら……なんて言っても全然面白くない。で、面白いのは情報から得た知識をアウトプットするときなんですよ。それはまた、情報をもとにした意見の創出、あるいは端的に表現といっても良いと思います。
たとえば、下の図を見てくださいませ! この図は国立感染症研究所から拝借したものです(汗
今シーズンのインフルエンザの流行による超過死亡の推移が示されていますが。2020年3月以降のデータが記載されていません。2020年の8週目あたりでちょっと上昇している。このタイミングって、あの新型コロナさんがいよいよ国内でも……という時期ですよね。さてさて、ちょっと整理します。
①2020年2月末くらいにインフルエンザの超過死亡が増加傾向を示唆している
②2020年3月以降、超過死亡のデータが記載されていない
③2020年3月以降、日本国内でも新型コロナさんの感染者数が増加してきた
この3つの情報からどのような意見を導くことができるでしょうか。
超過死亡の記載がなされていないのは、実はインフルエンザによる死亡と考えられていたものが新型コロナさんだったのではないの? という意見も◎ですし、保健所が忙しくでデータの更新どころじゃないのでは? という意見も◎だと思います。
意見は事実とは異なり、絶対的に正しいというような「正解」がありません。しかし、事実関係を巧妙に説明している表現こそが優れた意見ということができるでしょう。
ではすぐれた意見を構築するためにはどうすれば良いのでしょうか。意見が創出されるまでのプロセスには、他に付け加える情報や知識、そして知識を表現するための語彙が必要です。また、与えられた情報をうのみにするのではなく批判的に考察する姿勢も重要でしょう。いわゆるクリティカル・シンキングというやつです。
さらには情報の集め方というのも曲者なのです。自分の考えにとって都合の良い情報ばかりを集めてくることで、自分の主張に対する説得力を強めることもできる。意識するしないにかかわらず、虚偽で人をだますこともできれば、部分的真理で人をだますこともできてしまう。
この表現力と批判的思考は知識そのものとは異なった知性です。確かに語彙は知識そのものかも知れませんが、それをどのようなタイミングで、どのように活用していくかは、人それぞれの表現力に依存しています。知識とは異なるけれども、優れた意見創出に重要なもの、それこそが教養と呼ばれるものなのかもしれません。
戸田山和久さんの「教養の書」を読みました。学びの究極的な目的は生活を豊かにすることです。それは何かを発明することで世の中を便利にすることでもよいですし、単なる趣味でもよいと思います。そして学びが生活を豊かにするためには知識だけでなく、それを表現するための教養が必要なのだと思います。
本書は高校生や大学生向けに書かれた本だと思いますけど、その内容は世代を超えて共有できるものです。人は生まれながらにアホかもしれない。それでも社会を少しずつ豊かにしてきました。
人が学問をする理由とは何か? 学問はなぜ必要なのか? そんな疑問を子供のころから抱き続け、その問いに対する明快な答えを大人たちは与えてくれない。そんな経験をお持ちの皆さんにぜひおススメしたい1冊です。