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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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時間は実在しない?マクタガートの「時間の非実在性」を読んでみた。

ジョン・マクタガート(John McTaggart)は「時間の非実在性」という論文(Mind.1908.17: 457-73)で時間が実在しないことを論証している。時間が実在しない、というのはなかなか驚くべき事態であり、個人的にはやや魅力的なテーマでもあるが、その論文の全訳が講談社学術文庫より刊行されたので読んでみた。

時間の非実在性 (講談社学術文庫)

なお、本書が刊行される以前には公式な出版物としての邦訳は存在せず、日本語で読めるマクタガートの時間論としては入不二基義氏の「時間は実在するか (講談社現代新書)」が有名である。

時間は実在するか (講談社現代新書)

以下は僕なりに理解できた「時間の非実在性」を忘備録的にまとめたものであり、誤った解釈があるかもしれず、二次利用の際は注意されたい。なお引用は 永井均氏の訳によるものでページ数は談社学術文庫に準拠している。

[時間に関する3種類の言明] 

まずマクタガートは時間に関してA系列とB系列という概念を導入する。

『時間におけるもろもろの位置は二つの仕方で区別されている。[一つは、]それぞれの位置は他のもろもろの位置のあるものよりは前にあり、別のあるものよりは後にある[という区別の仕方であり、もう一つは]それぞれの位置は、過去であるか、現在であるか、未来であるか、のいずれかである[という区別の仕方である]。前者の部類の区別は永続的[不変]であるが、後者の部類の区別はそうではない。』p17

 時間に関する2つの言明、A系列とB系列を整理すると以下のようになる。

A系列・・・遠い過去から近い過去を経て、現在へと、そして現在から近い未来を経て遠いい未来へと連なる一系列
・ある出来事が今現在・・・それは未来だったのであり、過去になるだろう
▶時間の本性にとってより本質的な考え方

B系列・・・より前からより後へと連なる一系列
・出来事M(前)・・・出来事N(後) Mは常にNより前にある=永続的

(A系列とB系列の定義はP18)

僕たちはA系列とB系列の両方の系列をなすものとしてしか時間を見ることができない。直接知覚できるのは現在のみである。時間の中にある現在以外の出来事は記憶や推測によって実在すると信じられ、過去または未来とみなされる。つまり現在よりも前なら過去であり、現在より後なら未来である。したがって、僕たちが観察する限りでの時間上の出来事はB系列と並んでA系列を成すことになる。

時間は変化を含んでいる。A系列なしにB系列が成立するのだとしたら、変化もまたA系列なしに可能でなければならない。しかし、過去、現在、未来という区分なしに変化はあり得ない。

さらにマクタガートはC系列という概念を導入していく。

C系列・・・出来事の順序(時間的なものではない)
変化と時間が入ってきて初めてC系列はB系列になる。
時間的でないC系列は順序はあっても方向性はない。

A、B、C系列を整理すれば、A系列+C系列→B系列と表せるように思われる。入不二基義氏によるマクタガート解釈、すなわちA系列C系列=B系列とするのは端的すぎるという批判もある。

『変化と方向を与えるA系列が、永続性を与えるC系列と結びついて、はじめてB系列が生じうる』p32

確かに原著を読んでみても、この等式をにおわせる上記のような記述があるものの、明確に等式でつながれるかどうかについて、言及されていない。

[A系列が抱える矛盾と時間の非実在性]

さてマクタガートはA系列が時間の本質的な部分としながらもA系列は矛盾しており、実在に当てはめることは不可能であるがゆえに時間は存在しないと論証する。過去・現在・未来は両立不可能な規定である。しかし、どの出来事もそれらすべてを持つ。

『もし出来事Mが過去であるなら、それは未来と現在であった。もしそれが未来であるなら、それは現在と過去になるだろう。もしそれが現在であるなら、それは未来だった、そして過去になるだろう。このようにしてそれぞれの出来事に、両立不可能なこの3つのタームが全て述語づけられうる、このことは明らかに、それら三つのタームが両立不可能であることと、不整合であり、それらが変化を産み出すことと不整合である』p42

これについて、未来、現在、過去が同時的ならな両立不可能であり、同時的でないならば、なにも不整合なことなないと反論できる。しかしこの説明は悪循環に陥っている。つまり、時間の存在が前提とされているからである。このようにA系列を説明するためには時間の存在を前提としなければならないが、そもそも時間を説明するためにはA系列を前提としなければならず、これは明らかに悪循環である。

ある出来事が、過去である、現在である、未来である、という両立不可能な三つの特性を持ってしまうという困難に対処すべく、現在であり、未来だった、過去になるだろう、と言うようにすると、これはA系列を前提とした言明になってしまう。

確かに、経験Mの予期、その経験そのもの、その経験の記憶は、異なった性質をもつ三つの状態である。しかし、これら三つの異なる諸性質をもつのは未来のM、現在のM、過去のMではない。

『A系列を実在に適用することは矛盾を含んでおり、したがってA系列は実在には当てはまり得ない。そして、時間はA系列を含んでいるから、時間は実在に当てはまり得ない』p47

過去、現在、未来という区分に存在論的身分は与えられない。知覚それ自体は、記憶したり、予期したりする際に他の特性に置き換えられる、それがつまり現在性、過去性、未来性と呼ばれる信念である。いま経験している直接的知覚は僕にとっての「みかけの現在」の範囲内にある知覚である。その範囲外にあるものについては記憶か予期しか持てない。

ところで「見かけの現在」は状況によってその長さを変える。僕と他者とでは、その長さが異なるかもしれない。時間を実在するものとして考察した際、主観的ではなく、客観的(存在論的)現在が1秒なのか1年なのか、規定することは不可能である。僕たちには知覚できない現在があるかもしれず、このような客観的な現在を信じるべきいかなる理由もない。こう考えれば時間の実在性を否定することはそれほど逆説的ではないかもしれない。