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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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モヤモヤしたものをモヤモヤ見るということ

身体に不条理として迫る現象。僕たちはそれを医療という枠組みで治療しようと思考する。そして、僕たちはその現象と向き合う際に、身体不条理がなぜ起こっているのか知りたいという欲求が生じる。理解しがたい、そして耐え難い現象に対して、その発症理由を知れば、その現象をコントロールできるのではないか、あるいはそのように思うからなのかもしれない。

なぜ疾患が発生するのか、今起きている現象はどんな疾患なのか。身体不条理を僕たち自身に立ち現れる現象から切り離し、客観的に構造化することで、その疾患なるものに対する治療の仕方を考える。さしあたっては医療とはそのような原理モデルの上に構築される。

医療という枠組みが理論メカニズムにより説明されるようになると、現象と理論の距離はさらに広がる。そして診断さえつけば、適切な治療が可能になるとう信憑が深く根付く。現象ではなく理論メカニズムがすべての身体不条理を客観的に説明できるのだと錯覚する。理論を考慮することで僕たちの思考はむしろ限定的になる。

一度決定的となった物の見方、考え方から離れるというのは相当困難である。アヒルウサギの絵が、アヒルなのかウサギなのか本来両者には優劣などない。むしろそれはなにか、モヤモヤした絵なのである。

 

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しかし、答えが明確に得られることでアヒルかウサギか、どちらかひとつの見え方しかできなくなるのだ。あまりに整理整頓された分かりやすい枠組みが鋳型になって、僕たちはたった一つの見え方しかできなくなってしまった。曖昧な現象から目をそらすこと、人はそこに安心を手に入れるのだろう。

 しかし、これが原因だ、というような仕方で、この複雑な世の中の因果関係を決定することは本来できないはずだ。あれのせいだと明確に思考できるというのは世の中を単純にとらえすぎているという側面もあろう。曖昧なものがほとんどだからこそ、あいまいなものとどう向き合うかが医療の本性ではないか?治療する、しない、という2極化は物事を単純化しすぎている。「これは正常」とか、「これは異常」とか、そんな仕分け作業はある種の思考停止ではないか。

現象を救うコトという観点で言えば、真の理論へのコミットメントは必ずしも必要はない。現象を説明しうるのに十全な理論さえあればよいわけだ。理論メカニズムはわかりやすい。しかしこの単純化というのもが相当曲者なのだ。複雑なままとらえること。モヤモヤしたものをモヤモヤ見るそれが肝要だ。