思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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もう少し自由に生きること。

〔生きる意味について〕

生きる意味について、人はあらためて考えることがある。長く険しい人生の道のりで、ふと、なぜ僕はこの世界に生きているのだろうか。そんな風に考えたことはないだろうか。

生きる意味とは、つまり生きる目的のようなもの、そう言っても良いだろう。僕はかつて日本各地を一人で歩いたことがある。”自分探しの旅”、なんてよく言われるけど、何の目的もなく、ただ思い付きで自分の行きたいところに行くというのは、実は最高の旅だったりする。

自分探しの旅は限りなく不毛だと思わないかい?確かに、自分らしい、と言うような実感は生きる事への充実感を僕たちにもたらす。ああ、今を生きている、そんな感覚は素晴らしい。しかし、ほんとうの自分なんてものがこの世にあるのだろうか。自分探しをしているというその“自分”は自分じゃなかったらいったい何者なのだろうか。

学生時代よく言われた。「自分をしっかり持つことが大切だ」とか「目標を持って生きろ」とか…。そんなセリフは正直聞き飽きた。あの当時、目標やしっかりした自分なるものを所有したところで、社会にとって都合の良い生き方に近づくだけのような、そんな気がしたんだ。

〔生命至上主義〕

理想の生き方、例えば、重篤な病気にかからず、それなりの収入があり、文化的で、健康的な生活なるものがすべての人間で実現するとしたら、それは幸福な社会の理想モデルと言えるのだろうか。

伊藤計劃の「ハーモニー」という小説がある。

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

ハーモニー ハヤカワ文庫JA

 

 

近未来の高度医療社会、個人の健康と長寿を何よりも優先すべき尊厳とする生命至上主義社会を描くSF小説だ。人間の体内には、分子レベルで生化学的異常を感知する恒常的体内監視システムが搭載されている。どんな病気も未然に感知され、疾病の予防と健康増進のためにあらゆる手段が講じられることが常識的な社会。そんな世界で、高度な医学の発展と生命至上主義思想は、かつては気にもとめなかった嗜好品の数々を、次々と社会から追い出していく。酒も煙草も、カフェインすら…。調和や規律がもたらす世界こそが正しいセカイであり、規律を守り、調和を維持する生き方こそが正しい。

多様性なんて言葉があるが、このセカイでは多様性は認められない。健康と長寿から逸脱した社会行動や思想は徹底的に排除される。極めて均一的な社会。人間はみな長生きして、老衰でしか死なない。この大きな病院みたいなセカイでは、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態である。そしてそれは「意味」の消失を示唆する。

〔本来的な生き方〕

生きる目的とは何だろう。「目的」という概念は、到達したい状態として意図し、行動を方向づけるもの、それは「機能」と言う概念と結びつくように思える。“本来の機能”が目的とも言えるのではないか。

心臓が動く目的、つまり本来の機能は、循環器系を駆動することにある。それは、心臓に先天的な欠陥があって、循環器系をうまく駆動できない場合であっても例外ではない。本来は循環器系を駆動するはずのものではあるが、それが実行できなければ、本来の機能を果たせない欠陥物としての心臓である。

本来的な機能を果たすことが目的ならば、本来的な機能を果たすことができないということは目的を達成することができない。しかし“本来的な”ってやつはいつからこの世界に存在するのだろう。マルティン・ハイデガーの思想か。

目的も、本来の機能も、ヒトの解釈の世界にだけに存在するものなのではないか? 目的や機能なんてものは、この世界に独立自存するわけではなく、人間の解釈の方向性の部分に過ぎないのではないか? 僕の生きる意味や目的は、君にとって何の価値もない。だから人は他人の気持ちを真に分かり合えるなんてことができないのだ。

事物に本来の機能が備わっているように思えるのは、それはその事物の作成者の意図があるからだ。例えば、はさみの本来の機能は紙を切るものであって、窓ガラスを破壊するものではない。はさみは紙をうまく切断できるように設計されている。紙を切ることが目的なのだ。

しかし、僕の生きる目的は、僕の生きる意味は、誰かが意図的に設計したものではない。僕は生きているその都度、そこになにがしかの意味を見出す。時にそれが生きる目的になったり、ならなかったりする。それは僕が生きるという事の意志であり、葛藤そのものであり、そういう観点からすると多様性を秘めている。本来的か、非本来的かどうかを誰かに規定されるような覚えはないのだ。何もかもが自明ならば、そこに生きる意味はない。はさみのようにあらかじめ、紙を切るだけの人生である。

 〔目的意識が高いと長生きする〕

さて、先日面白い研究が報告されたようだ。前向き研究10研究(136,265人)を解析したメタ分析である。[1] この研究によれば、目的意識の高い人は死亡リスクが低いという(相対危険=0.83 [CI = 0.75-0.91]) 

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(Cohen R.et.al.Psychosom Med. 2015.より引用)

研究間の異質性は高いが、結果の方向性については一貫性も見て取れる。観察研究のメタ分析であり交絡の影響は大きいだろうが、常識的にも、なにか目的意識の高い人や、生きがいを感じているような人は、生き生きしているとでも言うのだろうか、長生きしそうなイメージはある。

しかし、目的意識の高さが常に社会に良い影響をもたらすわけじゃない。かつて日本は、欧米列強の植民地支配から逃れるため、富国強兵策を掲げ、全国民が自国のため、そしてアジアを守るために、世界を相手に戦った時期がある。その意識の高さは、後に大東亜共栄圏構想につながっていく。はたしてその思想が国際秩序的に妥当なものだったのだろうか、と考えることはしばしば重要であると僕は思っている。もちろん目的意識や、生きる意味がないセカイ、秩序が保たれている均一な世界。そんな世界に生きたいとも思わない。

 〔シグモイド曲線に垣間見る多元主義社会〕

目的意識とは何か。本来の機能を果たすべく何かに向かって生き続ける事か。その本来の機能なるものが、必ずしも正しいという保証がない中で、秩序が保たれた均一な世界こそが平和で豊かなセカイなのだろか。

適切性という考え方そのものが、何かを制御できるという信憑にとらわれている。カンブリア紀における生物の多様性のように。世界はもっと多様であり、特定の人の物差し、あるいは社会の物差しでその適切性は規定できないはずだ。

鈴木健の「なめらか社会とその敵」で描かれるシグモイド曲線が印象的だ。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

 

 

生きる意味や目的は、実に様々な様態であり、多くの人が自分の生きる意味を見出すために日々を生きている。その葛藤の中で、人が設定する目的意識はシグモイド関数のように滑らかだ。

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(シグモイド曲線:ウィキペディアより)

様々な選択に満ち溢れている社会。様々な考え方、生き方がネガティブではなくポジティブに捉えられる世界。常識なるものによって否定的な差異が、肯定的に捉えられる社会。差異は主体自らのあり様で滑らかに変化する可能性を秘めているはずなんだ。差異が否定的に捉えられることなく、様々な選択肢が、肯定的に与えられているセカイ。多元主義社会構想。

それぞれの行為の選択肢の帰結が既に決定し、それに合わせて最適な行動を選ぶより他ないということが「本来的な生き方」ならば、僕は死亡リスクが高かろうが、目的意識など高く設定したまま生きたくはない。僕が生きている意味、そう「機能」は本来の機能じゃなくてもいい。たとえ、欠陥だと言われようが、僕は酒も飲むし、脂肪分たっぷりの不健康な食生活だってしてやろう。もう少し自由に生きたい。そんな考えは、この世界でとてもネガティブなんだろう?でも僕はネガティブな生き方でいいよ。

〔参考文献〕

[1] Cohen R.et.al. Purpose in Life and Its Relationship to All-Cause Mortality and Cardiovascular Events: A Meta-Analysis. Psychosom Med. 2015 Dec 1. [Epub ahead of print] PMID: 26630073