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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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今年1年の思索を振り返り思うこと~希望へ模索と後ろめたさの自覚~

[過酷なるニーチェ]

中島義道さんの文章は心えぐられるようなリアルな文体が好きなのだが、河出文庫から新刊が出てたので無意識に購入していた。

過酷なるニーチェ (河出文庫)

過酷なるニーチェ (河出文庫)

 

 フリードリヒ・ニーチェ著作「善悪の彼岸」しか読んだことが無いのだが、何とも言えない(ニーチェの言葉を借りれば貴族道徳的な)文学的表現があまり好きではなく、本屋で「権力への意志」を見かけるたびに、手には取るものの、そっと棚に戻すということを繰り返している。

世間的には「神は死んだ」というテーゼで有名だろうか。ニーチェに関する“早わかり”的な本や“ニーチェの格言”的な本は世にあふれているが、多くの人はそこからなにがしかの教訓やら生きる意味のようなものを学ぶのかもしれない。しかし、これはあくまで僕の主観ではあるが、おそらくニーチェから生きる意味をポジティブに学ぶことはあり得ないニーチェの文体に向き合っていると、そこからおぼろげに掴めるのは「死んだほうがマシだ」という世界観である。

この「過酷なるニーチェ」という本はニーチェから何かを学ぼうという本ではないように思える。むしろニーチェの思想を徹底的に自分に引き受け、自らニーチェのように思索した「中島義道」という哲学者から学ぶことの方が多い。僕もいつかこういう本が書きたいと思う。さて、良く耳にする「神は死んだ」とはどういうことか

 『 自分は自分の意志でもないのに、ちょっと前にこの世に産み落とされ、あっという間に地上から闇に消え去り、その後は永遠に無が待っているだけである。しかもその人生は苦しみの連続である。神がいないとしたら、なんで自分はこんな過酷な状況に投げ込まれたのか、まったくわからないのだ。

これが「神の死」ということに他ならない。言いかえれば、こうした事実におびえる人間たちを手玉にとって、キリスト教パウロ主義)が2000年のあいだヨーロッパを支配したことに他ならない。ツァラトゥストラニーチェはこのうそを暴き出したのである』(過酷なるニーチェp31)

良く知られているように西洋哲学はギリシア哲学とキリスト教信仰が融合し発展してきた。プラトニズムの思想はこの世界にある本質なるのの存在を前提とし、そして、その存在が神格化されていく過程でキリスト教徒との融合を果たしていく。しかし、物事の本質なるもの、絶対的真理などが存在しないということが暴かれる時、人は生きることにいったいどんな価値があるのか問わざるを得ない。神の死はつまり、人の生に徹底した絶望を与えるものであり、生きることには何の価値も存在しないということを人に叩きつけるのである。それでも生きることに何の意味があるのだろうか。『良く生きるとは何か』という問いに対して、中島義道は以下のように答える

『生きる意味がないことを根底から自覚し、いかなる意味あるように見えることも決して眼を奪われずに生きることである(過酷なるニーチェp92)』

信仰心が強い人は自殺が少ないというエビデンスがある。[1]しかし、生きる意味が無いことを自覚し、ニヒリズムに徹することは、むしろ信仰をすて絶望を直視せよ、ということかもしれない。徹底して絶望することで「そとの基準」ではなく、自己の「(ニーチェの言葉を使えば)力への意志に従って生きよ」ということなのかもしれない。なぜこれが「よい生き方」なのだろうか。

『神の死を自覚した人間にとっての、唯一のごまかしのない誠実な生き方だからである(過酷なるニーチェp93)』

ニーチェによれば『徹底的ニヒリズムとは、承認されている最高の緒価値が問題であるとき、生存を維持することは絶対にできないという確信である(ニーチェ  権力への意志)』という。本当に死にたい、と思ったことのある人はこの文脈で言う「誠実な」の意味に少しだけでも共感できるのではないか。「誠実な」とは真面目なという意味ではない。それはごまかしをすて、あらゆる虚無感を「誠実」に受け入れることに他ならない。その姿勢に撤しよという。無意味な人生だ、くらいでは甘いのである。

[希望を見出すための選択肢を模索することの後ろめたさ]

僕は薬剤師として、薬剤効果の考え方に「曖昧性」という概念を導入する。[2]薬剤効果を規定する臨床研究の統計データには多様な翻訳可能性が宿るということだ。そして、どの解釈を採用するかは関心相関的に決定されていくのだと考えている。

例えば、DPP4阻害薬の心血管アウトカムに対する有効性はいくつかのランダム化比較試験によれば、プラセボに非劣性である。[3] DPP4阻害薬がプラセボに比べて非劣性という結果は、「ではまずはプラセボで様子を見ましょう」という判断につながると思うのだが、実際はそうならないのは、やはり血糖値を下げたほうが良いという関心が強いからだろうか。

確かに血糖値(HbA1c)を高いまま放置するのはなにがしかの「抵抗」があるのはよくわかる。とはいえ、その「抵抗」とは何か。生命予後が悪化する懸念というような「抵抗」なのか。2型糖尿病患者では心血管系アウトカムの悪化が健常者よりも早期に訪れるのは間違いないだろう。[4]しかし、2型糖尿病患者、特に罹病期間が長い患者に対して、厳格に血糖をコントロールしても心血管アウトカムは改善しないばかりか、死亡はむしろ増加するかもしれない。[5]つまり、高い血糖値を放置することで、確かに予後が悪化するかもしれず、そこには“生命予後が悪化する懸念”というような「抵抗」は確かに存在する。しかしながら、その抵抗に従っても、将来リスクに大きな差はないのかもしれないということだ。

ただ、DPP4阻害薬のような薬剤は山ほど投与されている現実がある。[6]つまるところ、「抵抗」とは独立して、単にこういった薬を使いたい、という関心だけなのかもしれない。

近年報告されるランダム化比較試験においても、従来薬に比べて新薬の非劣性が示されたというトライアルは多いが、「ではまず従来薬で様子を見ましょう」とならないのは、単に新薬を使いたいという関心が強いからではないか。そこに従来薬でもいいじゃないか、という関心への抵抗の強さはあまり見られないように思われる。「抵抗」の抑圧と、単に薬を使いたいという思惑の補強という仕方でトライアルのデータが使われること、これは論文結果の解釈可能性は多様性に満ちているということをネガティブに実証している

論文結果の解釈可能性についてのポジティブな考え方は、薬剤効果の曖昧性を自覚することでもたらされる価値判断の多様性である。ある薬剤が相対危険で心筋梗塞を30%減らすとしよう。こうした相対比はやはり薬剤効果に対する有効性を強調するかもしれない。しかし同じ薬剤の統計データであってもNNTで見れば120というような数値に、とりわけ著明な効果は感じ得ないだろう。つまり薬剤効果というものは、存在論的に実在しているかのような錯覚を覚えるのだが、実は認識論的にいかようにも解釈が可能だという事なのだ。これこそが論文結果の解釈における多義性である。

薬剤効果に関する統計データには様々な解釈可能性があり、それを今、関心に応じて認識しているに過ぎないことを踏まえることで、薬剤効果の曖昧性が垣間見えてくる。この場合、患者に適用できる選択肢は「(薬を服用しようがしまいが)どちらでもよい」である。

大事なのは目の前の患者と患者を取り巻く様々な人たちがどういった現実を生きていくかである。今ここにある苦しみに対して、最終的に患者やその介護者がなんらかの希望を見いだせる選択肢を提供することが大切だろう。薬剤効果の曖昧性に気づくこと、つまり論文結果の解釈多様性は、そうした選択肢を提供する可能性を少しでも上げることができるのではないだろうかと考えている。

しかし、ここで僕はニーチェの文脈を挿入せざるを得ない。薬剤効果が曖昧だと言うのはつまるところ、それほどの効果でしかない、つまり薬物治療には限界があり、そこに見出せる価値はごくわずかでしかない、ということなのだ。[7]今ここにある苦しみに対して希望を持てるような選択肢を提供すること、それはそれで大切なのだ。しかし、希望を持てるような医療行為、つまりDPP4阻害薬を投与したとして、それで患者の予後が改善するかどうかわからないし、おそらくほとんど改善しない、ということは多々起こり得る。他方、「とりあえずプラセボで様子を見ましょう」というような医療行為に対して患者が希望を持てるとは思えない。いずれの選択にせよ、臨床判断の果てにあるの事実は絶望そのものであり、少なくとも希望ではない

ここで僕が強調したいのは、DPP4阻害薬を投与すると言うような“偽りの希望”を提供することについて、そこには大きな後ろめたさを自覚する必要があるのではないか、ということである。そうした後ろめたさに医療者自らも苦しみを感じなければならないのではないか。

「希望を見いだせる選択肢を提供する」とは、「絶望から気をまぎらわすというような選択肢を提供する」ことに他ならず、それはニーチェ(あるいは中島義道の言う)「誠実」な臨床判断ではないだろう。だからと言って、医療は患者に絶望を与えるものなのか?否、希望を与えられない医療はおそらく医療ではない。だからこそ大事なのは、医療者は、『患者が絶望を直視しないような希望を与えるという行為』に対する後ろめたさの自覚をもつということではないか。そうした後ろめたさを引き受ける事こそ、臨床に立つということではないだろうか。そうした自覚のもと、臨床に立つということを僕は意識していきたい。

[脚注]

[1] JAMA Psychiatry. 2016 Aug 1;73(8):845-51.

[2] 詳細は「地域医療ジャーナル:開かれた医療とその敵:第3節を参照」

[3] N Engl J Med. 2013 Oct 3; 369(14):1317-26.N Engl J Med. 2013 Oct 3; 369(14):1327-35.N Engl J Med. 2015 Dec 3; 373(23):2247-57

[4] Circulation. 1999 Sep 7; 100(10):1134-46.Acta Diabetol. 2003;40(Suppl 2):S358–361.Arch Intern Med. 2001;161:996–1002.Circulation. 1999 Sep 7; 100(10):1134-46.Diabetes Care. 2003 Aug; 26(8):2433-41.Circulation. 2009;119:1728–1735.JAMA. 2010;304:1350–1357.Lancet. 2010;375:2215–2222

[5] N Engl J Med. 2008 Jun 12; 358(24):2545-59.

[6] J Diabetes Investig. 2016 Aug 23.PMID: 27549920

[7] 急性疾患ではまた違うのだろうが、本稿では慢性疾患用薬についての文脈と考えていただきたい。

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