【書籍】いつもそばには本があった。
『いつもそばに本があることは、人間が人間らしく生きるために必要な条件だという認識は今も失われていない』p114
國分功一郎さんと、互盛央さんによる、対談とも往復書簡とも異なるエッセイ集、『いつもそばには本があった。』を読んだ。
1冊の本との出会いが、物の見方や考え方を大きく変えることもある。それは時に、視界に映る風景を180度変えてしまうような強い力を宿している。
ぼくが哲学に惹きつけられたきっかけは、丸山圭三郎さんの『言葉とは何か 』という本だった。
この世界のあらゆる事物を、砂漠のようなただの砂地に例えてみれば、言葉はその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、言語によって切り取られる世界が変わっていく。丸山圭三郎さんが紹介するソシュールの思想は、僕がこれまで当たり前に眺めていた日常の風景を大きく変えた。
その後、構造主義やポスト構造主義に関する書籍をたびたび手に取ってみることになるが、書かれている内容がその場で理解できるわけでもない。思想書や人文書は、理系出身のぼくにとって非常に難解な言葉で書かれていたし、ただ文字をなぞるだけの苦痛に耐えかねて、そっと本棚に戻した書籍も数多い。
しかし、折に触れて再び本を手に取り、その難解な文章を最初から読み返してみると、当初は良く分からなかった内容も少しずつ頭の中にしみ込んでいくような、そんな瞬間が少なからずあった。
分かりにくい言葉に理解は追いつかない。そんなことは当たり前だ。だがしかし、読み手に届くこと強く願っている、そんな言葉が確かにある。分かりやすい言葉には、そのような強い願いは宿っていない。むしろ、思考の単純化を迫るような強迫的な何かをまとっている。
『「分かりやすい言葉」は無神経で、ふてぶてしく、がさつで、暴力的で、単純化を迫る』p56
『弱い言葉は理解されるのに時間がかかる。いや、言葉というのはそもそもそういうものではないだろうか。言葉が届くにはとても時間がかかる。それに一度届いても、その後、何度も何度も回帰してくるのが、言葉と呼ぶに値する言葉だ』p56
自分にはこの本を読む資格があるのか? と、絶えず問い続けながらも、何回も表紙を開き直す、というような本との出会いは重要だと思う。字面から表面的なことしか受け取ることができないにしても、そういう内省的な心持ちでページをめくるような本との出会い。
結局のところ何年かけても読めない本なのかもしれないが、そうした本は常に読み手に”問い”を与え続けてくれる。本を読むことで何かを学ぶというのは、本に書かれている内容を知ることだけじゃない。むしろ問いを立てること、その先へ進もうとする態度の中にこそ学びがあるのだ。
『テクストを読むこと、本を読むことは、「どういきるか?」を問うことであり、それを問うための適切な問いを発見し、立てることである』p32
いまだ自分が出会っていない、物の見方や考え方、そんな混沌とした何もない世界に言葉が少しずつ輪郭を描いていく。書き手の物語を追体験しながら、言葉の向こう側にある世界に近接していく中で、景色のディテールが鮮明になっていく瞬間がある。本を読む、それは言葉を得る感覚に近い。
『一人の人間が自分で経験することで直接みたり知ったりできることは、ごく限られている。書物がもつ機能の一つは、「他者」というものを通して自分の世界を広げていくこと、あるいは世界を見る見方を多用にしていくことにある』p36
『一冊一冊の本が目の前の現実や研究の現状を整序する物語を提示し、読者が様々な物語を体験すること、それによって、読者がそこへの接近の仕方を学んでいくこと、それこそが必要であろう』p112
言葉で何かが伝わる、という前提に立つべきではない。それは決して言葉を信用していないというわけではなく、言葉というのはそれほど難しい技術なのだ。だからこそ、何度も何度も繰り返し言葉をなぞっていく必要がある。
『あとから振り返った時に「そうであった」という過去形で気づかれるもの――もっと正確に言えば、そのような過去形でしか気づかれないものが確かにある。本を読むということがそうだろう』P120
大事なのは数多くの本を読むことじゃない。読み返すたびに新しい発見や、新たな問いを発してくれるような本との出会いこそが重要だ。言葉を繰り返しなぞった先で、ふと後ろを振り返った時、自分が以前とはだいぶ異なる場所にいることに気が付くだろう。