思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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ゲンロン0を読んでいる。~観光客、動物、そしてポストモダン~

「郵便的…」以来の集大成と言われる東浩紀さんの「ゲンロン0」を読んでいる。

ゲンロン0 観光客の哲学

まだ全体の3割くらいしか読み進めていないけれど、そのテクストには多くの刺激が詰まっている。それはまるで、ロールプレイングゲームのラストシーンでラスボスが明かす、この世界の真の在り様とでもいうような……。

本書にはいくつかのキーワードがある。あくまで僕がキーワードだと感じた言葉たちではあるが、大きく3つあるように思う。それは「観光客」「動物」そしてポストモダン

ポストモダンは一般的に思われているような、あの”ポストモダン”というよりは個人的には”大量消費社会”あるいは”グローバリズム”と言ったニュアンスに近いと考えている。そしてこのキーワードは他の2つのキーワード、「動物」と「観光客」という概念に密接に関連している。

東浩紀さんは「弱いつながり」のなかで、「村人」「旅人」「観光客」という概念を提示していた。

弱いつながり 検索ワードを探す旅 (幻冬舎文庫)

村人はその土地に住まう人々。その土地に思い入れがあり、また同時にその土地に対する有責な仕方で関わる人たち。他方、「旅人」は安住の地を求めず、終生、生活の場所を変えていく人たち。そう簡単になれるものではない存在だ。しかし、観光客はどうか。自分の住まう場所は別ある。つまり帰る場所はあるが、それにもかかわらず旅をすることができる存在。そして、旅先の生活にそう多くの有責性を持たない。ある種の無責任さを伴うのが観光である。

観光はその無責任さゆえ村人や旅人に比べて自由である。この自由というものが人間を動物化して行くのだと僕は考えている。それは国家に所属する成熟した国民という枠組みから逸脱した、いわば非国民と言う仕方で。例えばハンナ アーレントのいう「人間の条件」を満たさない存在。しかし、それはネガティブなことなのだろうか。現実は大量消費社会、国境の消えかかったグローバリズムが蔓延する世界、ポストモダンである。そこでは「動物」はむしろポジティブな仕方でとらえられるのではないか。あるいは控えめに言っても軽視ないし無視できない存在である。

 観光客的な「知」の在り方は、権威がもたらす「知」の在り方と対極をなす。専門家が主張する”フォーマルな知”と、観光客が発信する”カジュアルな知”、現代社会はそのウエイトをどちらに傾けようとしているのだろうか。情報化社会、おそらくそれは後者のウエイトを徐々に上げていくだろう。

『権威』からの離脱、これはある種の『動物化』とも言えるかもしれない。ポストモダン、大量消費社会は動物化をむしろポジティブな仕方でしか受け入れつつあるように思う。

(シュミットやアーレントたちをはじめとする)『20世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費社会の出現を「人間でないもの」の到来として位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかしそのような拒否がグローバリズムが進む21世紀で通用するわけがない』ゲンロン0 p110

この「動物」というキーワードは、東さんの「動物化するポストモダン」ですでに概念化されている。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

さて、観光客としての知の在り方がもたらすのは何だろうか。それは既に浸透しつつあるグローバリズムという観点から、類似の示唆が得られるかもしれない。

グローバリズムは確かに富の集中を強めただろう。先進国内部で貧富の差を拡大もしただろう。しかし同時に国家間では貧富の格差を縮めてもいる。…(中略)…いまや世界は急速に均質になりつつある…(中略)…現代では国家間の経済格差は、各国国内の都市と地方の格差よりも小さくなりつつある』ゲンロン0 p33

本書ではユーチューブの動画が紹介されている。一次情報の出典の記載はないが、東さんが引用した動画は以下の原著論文とWEBサイトが原典であると思われる。

Rosling H.et.al. Health advocacy with Gapminder animated statistics. J Epidemiol Glob Health. 2011 Dec;1(1):11-4. PMID: 23856371

www.ncbi.nlm.nih.gov

平均余命とGDP、世界がどのように収束するかは、以下のグラフィックで、ご自身で確かめられたらいい。

Gapminder Tools

観光客的な知の在り方は、権威的な知の在り方から何かを奪う。それはいったい何か?

知的格差が示唆されたのはもやは遠い過去のこと、そんな未来が待ち受けていることをこのグラフィックは示唆しているように感じる。

 

話は変わるが、二次創作というものがある。既存の作品を利用して、二次的に創作された事物の俗称だ。小説の世界を原作者とは別の人間が利用して、世界設定、登場人物は同じだが、全く別の物語りを生み出す行為と言える。こうした二次創作はかつて、批判的な意見もあった。しかし現代社会ではどうだろうか。

『現代の消費環境においては、最初から原作があって、次に二次創作がくるのではない。原作者は最初から二次創作について考え抜いている』ゲンロン0 p50

個人的に思うのは『理解』というのもある種の二次創作性を帯びているということである。それは一次情報という原作の二次創作という仕方で。したがって、二次創作者の関心は情報の捉え方に多様性をもたらすことになる。僕たちは二次創作者であるがゆえに「信念対立」を起こし、また「誤配」を起こすのだ。

『二次創作者はコンテンツの世界での観光客である。裏返して言えば、観光客とは現実の二次創作者なのだ』ゲンロン0 p51

 ポストモダンを生きる多くの人達が、情報世界を観光という仕方でとらえているのではないか。一次情報を生み出す村人ではなく、あらゆる情報を記憶する旅人のようなデバイスでもなく。村人の意図とは無関係に理解し、評価し、楽しむ観光客としての情報消費、これが情報化社会を生きる大方の人間の存在様式だろう。そこにあるのは情報に対するある種の『無責任さ』である。

だからこそ理解してはいけない。現象は特に。曖昧なまま受け入れることこそ肝要だ。人は人を絶対に理解できない。逆説的かもしれないが『理解』が人と人との関係を歪ませる。むしろわかってはいけないのだ。大切な人であればなおさら。理解への抵抗のなかにこそ大切な想いがある。つまり人はあらかじめ孤独という仕方でしか存在し得ないということこそ受け入れられるべき信念である。

『ひとは、自分が「ふつうではない」と思いこんでいた場所に赴き、そこが「ふつう」であることを知ってはじめて、「ふつうでない」ことがたまたまそこで起きたという「運命」の重みを受けとることができる』ゲンロン0 p57