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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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病名とは何か、ソシュール言語学から垣間見る疾患成立の恣意性

ソシュール 病名

ソシュールの思想]

言語学と言っても、さまざまであるが、ここではフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語学からの示唆をもとに、「病名とは何か」ということについてあらためて考えてみる。その前にソシュール言語学とは何か、ここでは難解な用語は避けできる限り平易な言葉で解説を試みたい。

ソシュールは言語の記号表記(コトバ)そのものをシニフィアン、そしてコトバの同一性を認識し意味へと変換されたものをシニフィエと呼んだ。たとえば「ネコ」という言語はnekoという音声=“シニフィアン”と、その意味としての「猫」というイメージ=“シニフィエ”に分けられる。このシニフィアンシニフィエの結びつきは、自然的ではなく、非自然的(恣意的)であるといえる。ネコは日本語であるが、英語ではcatであり、したがってイメージとしての「猫」というシニフィエが直接的にネコというシニフィアンに結び付いているわけではない。言語と客観事実とが、一対一で自然的に対応していないからこそ、民族や文化によって言語は異なるのだ

 またもっと重要なことは、猫、山猫という言語があった時、それぞれのシニフィアンに対応するシニフィエを持っていると考えられるが、たとえば山猫というシニフィアンが消えてしまっても、客観事実である山猫そのものが消滅するわけではない。山猫というシニフィアンが消えてしまっても、猫に対応するシニフィエが山猫をカバーするだけである。ソシュール研究で有名な丸山圭三郎の言葉を借りれば、「この世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、コトバと言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、おおよそコトバによって切り取られる世界の見方が変わる」というわけだ。「山猫」という言葉が生まれると同時に、「猫」たちは「猫」と「山猫」に分節されるように、言葉はその存在と同時に世界の見え方を変えて行く

[病気とは何か]

ソシュールの思想を現代医療に落とし込むとすれば、ごく端的にいうと、「さまざまな病気があらかじめ存在し(未発見である疾患と言えど…)それに対して人が病名を付けるのではなく、人が病名によって、本来連続的な正常(健康)と異常(病気)との間をカテゴライズ(分類)している」ということになろう。

ソシュール言語学ではカテゴライズする際の同一性概念をシニフィエと呼んだ。ソシュールの考えに基づけば、病気の「実体」から主体が知覚する「現象」、そして主体が発する「コトバ」(=シニフィアン)。そのコトバと病名(シニフィエ)の対応は二重の意味で非自然的(恣意的)だということが分かる。どういう事か。

認知症を例にしよう。まず一つ目は『呆け』という実体を『痴ほう症』と呼ぶか『認知症』と呼ぶかは社会文化的背景によるという意味で非自然的(恣意的)だということだ。日本ではかつては痴呆と呼ばれていた概念は、平成16年12月24日に厚生労働省の「痴呆」に替わる用語に関する検討会において、「痴呆」という用語は、侮蔑的な表現である上に、「痴呆」の実態を 正確に表しておらず、早期発見・早期診断等の取り組みの支障となっていることから、できるだけ速やかに変更すべきである。とされ、「痴呆」に替わる新たな用語としては、「認知症」が最も適当である、とされた。1)

そして第2に、呆け状態をどこから病気としてカテゴライズするかという問題だ。認知症のスクリーニングは認知機能テストによる点数、MMSEスコアと呼ばれる点数の結果により、その数値が正常と異常を分節して行くシステムになっている。

MMSE (Mini-Mental State Examination) とは認知機能検査のことで30点満点のスコア評価により認知機能を調べる。認知機能なるものは正常から異常まで連続的に変化するもので、いったいどこから異常と取り扱えばよいのか非常に微妙な問題なのだが、MMESというスコアでは30点満点中、総合得点が23点以下の場合は、認知症の可能性が高いと判断される。日本ではMMSEではなく改訂版長谷川式スケール(HDS―R)が用いられることが多い。MMSEと同様に多くの場合で、30点満点で評価し20点以下を認知症疑いとする。これで確定診断になるわけではないが、人が有する身体不条理である「呆け」を正常か異常かに分節してゆくその手法はこのような手続きにより行われるのである。

このような構造はたとえば高血圧症や糖尿病でも同様である。血圧の値や血糖値の値が一般集団の平均的な値である「基準値」から逸脱しているか否かで病気かどうかが決まる。もちろん基準値は全く適当に決められているわけではなく、背景となる疫学的研究に基づき、その値を超えれば将来の合併症リスクが高まるなどの根拠により支えられている面もあるが、具体的な数値は社会、文化的背景により非自然的(恣意的)に決定されている側面は否定できない。収縮期血圧が150mmHg以上で治療を開始するか、140mmHg以上で治療を開始するかで、治療開始の対象となる患者集団の人数は大きく変化し、投与される医薬品の使用量も大きく変化することは自明だろう。大事なのは、基準値の妥当性の真偽ではなく、疾患の定義には社会、文化的背景など非自然的(恣意的)な要素が入り込む余地があるということだ。 

 このように病気と言われるような現象は診断基準というコトバによって単なる身体不条理という現象から疾患を非自然的に切り取るという側面を有する。病名というコトバをあてがうことで、現象をカテゴライズし、概念化し、認識し、そして治療を考えていくわけだ。

[病気は人間によって非自然的に生み出される]

病気、すなわち疾患の成立過程に見られる恣意的な性質について、ソシュール言語学からのアナロジーを用いて考察してきたが、ここで具体的に「機能性ディスペプシア」という疾患を取り上げてみよう。やや聞きなれないこの病名であるが、本邦では2013年5月に保険病名が誕生し新しい疾患概念で、簡単に言えば、胃の痛みや胃もたれなどのつらい症状が続いているにもかかわらず、内視鏡検査などを行っても異常がみつからない疾患といえる。

機能性ディスペプシアは「ROME III」という診断基準(=コトバ)によってその同一性がコードされている。具体的な診断基準は以下のとおりである。

胃・十二指腸領域に由来すると考えられる症状のうち、以下の症状のうち1つ以上があり、上部内視鏡検査等で器質的疾患が確認されないこと

※「つらいと感じる食後のもたれ感」

※「早期飽満感」

※「心窩部痛」

※「心窩部灼熱感」

及び「6カ月以上前から症状があり、最近3ヵ月間が前記基準を満たしていること」

 

診断基準を改めて見てみると、内視鏡検査で潰瘍などの異常が認められなければ、このような現象は従来、臨床的には慢性胃炎として取り扱われてきたと考えられる。消化器症状という現象自体は変わらないにも関わらず、ROME IIIというコトバにより、慢性胃炎と機能性ディスペプシアが分節された良い例である。診断基準があることで一見合理的に見えはするものの、胃もたれや心窩部痛を「慢性胃炎」と分類すべきか「機能性ディスペプシア」と分類すべきかは、本来恣意的といえる。なぜこのような新しい疾患概念が必要だったのか。病名がクローズアップされてくるようになった背景にはアコチアミドという新薬の開発がある。

 

同薬の有効性は以下の論文で報告されている。 

 

Matsueda K, Hongo M, Tack J.et.al. A placebo-controlled trial of acotiamide for meal-related symptoms of functional dyspepsia. Gut. 2012 Jun;61(6):821-8. PMID: 22157329

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22157329

 

この論文については以下のサイトにまとめてあるので興味のある人は見ていただければ幸いである。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/di/column/ebm/201412/539582.html

簡単に要約すると、この研究はRome III基準による食後愁訴症候群を有する機能性ディスペプシアと診断された20~64歳の日本人897人を対象に、アコチアミド100mgを1日3回投与とプラセボ投与を比較した2重盲検ランダム化比較試験である。治療全般印象改善割合(7段階評価)、後膨満感、上腹部膨満感、早期膨満感の3症状消失(4段階評価)というかなり主観的なアウトカムを患者自身が段階評価を行ったものを主要評価項目にしている。

当然ながら、研究の結果はプラセボよりも優れたものとなっているわけだが、このような主観的なアウトカムに対して、既存の消化器系薬剤とどの程度差異が生じるものなのか、興味深い問題だ。僕はおそらく明確な差は出ないだろうと推測する。アコチアミドは機能性ディスペプシアという疾患概念の中にだけしか存在できない薬剤と言えるのだ。事実、アコチアミドは機能性ディスペプシアにしか健康保険上の適応を持たない。そして、注目すべきはアコチアミドという薬剤の認識を高めるためにも機能性ディスペプシアという疾患をクローズアップさせなければいけないという構造になっている。すなわち、薬剤の売り上げを伸ばすにはどうすればよいのか、という、売り上げへの「関心」が疾患成立の過程の中に存在するということを誰も否定できないのではあるまいか?

このように病名分類もまた、現象の捉え方、医療や社会の常識・価値観により恣意的に分節される側面は明らかだ。もちろんこのように生み出された疾患概念が、治療体系をより明確にし、患者を支える制度設計が強化され、救われる人間も確かにいるはずである。しかしながら、その裏では、新たな疾患概念をターゲットとした市場が形成されるという2面性を有するということは知っておくべきだろう。

 なお疾患成立については恣意的ではないという指摘もあるだろう。確かに、感染症などの急性疾患では、ウイルスが同定されたり、血管が詰まって脳梗塞が起きたりとその原因が明確であり、疾患成立は恣意的ではないという批判である。しかしながら、ここでは原因が明らかかどうかを問題としているのではない。感染症においてもウイルスや細菌がいるだけでは疾患として成立することはないだろう。また脳梗塞でもその重症度は大なり小なり幅が存在し、治療適応となるかどうかという意味において疾患成立は恣意性を帯びているということである。

 

1)厚生労働省 「痴呆」に替わる用語に関する検討会報告書