思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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思想的、疫学的、医療について

[高所からの自由落下時のパラシュートの有用性]

パラシュートの装着で死亡や重度の外傷は防げるか、というシステマテックレビュー&メタ分析がBMJより報告されている。1)どういう事か、すなわち高所から飛び降りる際の、パラシュート装着に関する有用性を検討した論文だ。パラシュートと外傷に関する関連など検討するまでもない、パラシュートを装着せずに落下したら死亡するか、重傷を負うか、まあ少なくとも無傷ではいられないことは当たり前の因果関係のように思えるが、こんなシステマテックレビューが実際に行われた。

当然ながら大真面目なシステマテックレビューである。自由落下中にパラシュートを使用した場合の効果を示す論文をMedline, Web of Science, Embaseやコクランライブラリ、適切なインターネット情報サイトと引用リストを本気で検索している。一次アウトカムは死亡もしくはinjury severity score で15を超える重症外傷に設定された。 

その結果、パラシュート介入によるランダム化比較試験は存在しなかった。すなわち、自由落下中にパラシュートを装着することの臨床的有用性に関する科学的根拠は存在しないことになる。疾病予防に関する介入効果の検討がなされていないケースも多々あるように、パラシュートの検討もなされてない。しかし健康に関するすべての介入がランダム化比較試験で検討されている必要性を主張するためには、パラシュートをつけずに地上に激突する必要があるだろう。

[経験主義における因果関係]

因果関係とは原因と結果の連なりといえよう。またその原因は単一という性格を有さないことは「思想的、疫学的、因果関係について」でも述べた。

 

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ところで、因果関係において、原因が結果を引き起こしているところを直接見ることはできない。例えば、ボールが窓ガラスに当たって窓ガラスが割れたとしよう。ふつう、僕たちは投げたボールが原因で窓ガラスが割れたと考える。もっと詳しく言えば、投げるときにくわえられた力が、ボールの運動に変わり、それが窓ガラスに激突することで、ガラスに力が加わり、ガラスが割れるというようなことが考えられるだろう。しかしよくよく考えてみると、その「力」的なものが目に見えているわけではない。その「力」的なものが引き起こしているであろう現象を目撃しているに過ぎない。

そのような目に見える現象の知覚経験にすべての知識を基礎づけようとする経験主義にとって、因果関係は存在しない、という見方が可能になる。

経験主義者デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)は、人間は、その習性として因果関係ととらえてしまうのだという立場をとった。つまり人間は今起こっている出来事に法則性を見出してしまう生き物だというのである。因果関係だと思っているものは何度も同種の出来事のペアが引き続いて起こるのを見た人間側の思考の癖に過ぎないというわけだ。

[科学的因果関係]

経験主義的な因果関係を擁護するのであれば、冒頭のパラシュートの件も、因果関係と考えるのは、人間の習性に過ぎないととらえることが可能だ。このような考え方は突き詰めると社会構成主義と重なる。自然で、当たり前で、実在的だと思えることも実は人と人との権力関係により構成されたものに過ぎない。因果関係という原因と結果の連なりも、僕たちがそう見るよう習慣的に刷り込まれているという解釈をととることもできる。

しかし、因果関係が自然的な秩序における独立性テーゼの上に成り立たない、すなわち社会的な習慣や制度により構成されたものならば、高所からパラシュートで飛び降りてみろ、といわれて飛び込むだろうか。

ここには重大な問題を忘れているように思える。それは、必然性のある因果関係は人間には疑う事ができないということだ。多くの人が目に見える、観察可能な現象において、因果的法則性は独立して外部に存在すると確信している。そういう観点からすれば、社会構成主義も経験主義もかなり極端な考え方に他ならないと僕は思う。確かに物理法則が外部に独立自存していると考えているのは人間の壮大な錯覚だ!という独立性テーゼの否定はラディカルだ。しかし、目に見える観察可能な現象は、そこにどうしても因果関係的法則を見出してしまう。そうでなければ僕たちは生きていくことができないという事もある。考えても見てほしい。赤信号を無視して猛スピードで行きかう車の前に飛び出す勇気はあるだろうか。

[構成的経験主義]

因果関係において、原因と結果が目に見える観察可能なものだとする。冒頭の例で言えばパラシュートを装着せずに高所から自由落下したら死亡した、というのはパラシュートをつけないことが原因で死亡したという事である。因果関係は突き詰めると確かに目に見えない部分が存在してくる。自由落下における加速度とか、引力とか、地面にたたきつけられた時の衝撃力という「力」そのものを客観的に見ることはできないというところまでは同意できる。

しかしだから、この一連の流れは因果関係ではなく、人間の習性として法則性を感じているだけだ、なんてことは通常信じられないし、僕は言い過ぎだと思う。目に見える現象の法則性は外部に独立自存するという「独立性テーゼ」を保持したまま、目に見えない「力」的なものの存在が「力」でなく、なにか得体のしれないものでも何でもいい、いうなれば死亡する詳細のメカニズムが明らかでなくとも、原因と結果の目に見える関連が明らかであれば、僕たちは結果に至るまでの過程に法則性を見出し、またそれが再現できると確信する

[思想的、疫学的、医療について]

いよいよテーマもクライマックスである。医薬品の有用性において、実は作用メカニズムが問題なのではなく、医薬品を服用した結果、人の一生における重大な転機にどのような影響を与えうるかという事が大事なのである。薬理作用や病態生理のような目に見えないメカニズムがどのような機構で成立してようが、実はあまり重要じゃないというのが僕の立場である。大切なのは医薬品を服用した結果として起こりうる人に対する現象である。これはコレラ菌がどのようなメカニズムで症状を引き起こし、そして伝播してゆくのか、全く分からない状態でコレラ感染の拡大を阻止したジョン・スノウや、原因ウイルスや疾患自体の病態生理は全く分かっていなかで天然痘ワクチンの礎を築いたエドワード・ジェンナーの仕事と通じるものがある。そう疫学的思考である。

構成的経験主義とは観察不可能な現象に対するメカニズムを明らかにすることを目的としていない。経験的に十分な理論を作ることを目的としているからだ。独立性テーゼは否定せず、社会構成主義にも陥らず、観察可能な真理を追究する。この基本的な考え方はどうにも疫学的思考とオーバラップするし、医療においてもとても重要なことのように思える。

[参考文献]

1) Smith GC.et.al. Parachute use to prevent death and major trauma related to gravitational challenge: systematic review of randomised controlled trials. BMJ. 2003 Dec 20;327(7429):1459-61. PMID: 14684649

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