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思想的、疫学的、医療について

医療×哲学 常識に依拠せず多面的な視点からとらえ直す薬剤師の医療

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「死」の医療化

死にゆく過程。それは生物が生まれてから死に至るまでのすべての期間を指す。生と死。厳密にその境界線を引くことは不可能である。心肺機能が停止しても細胞レベルで言えばミトコンドリアはATPを産生しているかもしれないし、ある種のリボソームではタンパク質が産生されているかもしれない。生命活動は微細なところで心肺機能停止後も続いている。もちろん、それが永遠に続くわけではなく、やがてすべての生命活動、(否、生化学反応と言った方が良いだろうか)は停止する。すべての機能が停止するまでを死と定義するのであれば、僕たちはいったいいつ死ぬのだろうか。細胞一つ一つを確認しない限り、その死を厳密に規定できないのは明らかだろう。

現実には、睫毛反射・対光反射(直接反射、間接反射)の消失、そして心臓の鼓動が停止し、肺に新たな空気が取り込まれることがない状態をもってして僕たちは死ぬ。(ということにする)つまり死は恣意的に決定される。人は死の辺縁でいったい何を見るのだろうか。常に死の予感を感じながら僕たちは生きているが、その死があまりにも近くに迫った時にいったい何を感じ、何を想うのだろうか。

〔終末期せん妄と苦痛〕

終末期せん妄(terminal delirium)という言葉がある。死亡直前期に生じる回復不能な、せん妄を指すことが多い。その頻度は文献上様々ではあるが、90%とも報告されている。[1]つまりこれは死に至る過程の一部であり、そもそも疾患と定義すべきものなのか、議論の余地はあるだろう。せん妄とは基本的には意識障害である。全身の臓器の機能が低下したり、低酸素などによる身体的な理由が原因で誘発されると考えられている。

この終末期せん妄という現象を疾患として切り取り、治療対象とすべきかどうかについては、前述のとおり難しい問題である。終末期せん妄は患者本人に苦痛を与えるものなのだろうか。101人(平均58.3歳、男性52人、肺癌20.8%)の終末期せん妄患者を対象に、それがどのような体験だったか検討した論文が報告されている。[2]

研究に参加した101人のうち54人(53.5%)の患者でせん妄経験の記憶を有しており、実に80%に当たる43人で苦痛があったと報告した。せん妄患者を介護している配偶者や介護者でも76%にあたる57人がつらい経験だったとしている。

患者本人にとって終末期せん妄は苦痛である可能性が示唆されているが、実際にその予防は困難だと考えられている。緩和ケア病棟へ入院した1516人を対象としたランダム化比較試験では、せん妄予防ケアの有用性は示されなかった。[3]

死にゆく人本人のみならず、その家族への精神的負担も大きい。ホスピスにて一定期間に死亡したがん患者の遺族250名のうち、終末期せん妄が認められた患者の遺族184名を対象とした研究では、患者家族の不安、心配、困惑、困難感が表出されたと報告されている。[4]大切な人がせん妄により、これまでの元気な姿とは全く異なる様相を目の前に、現代の価値観では多くの場合でこのような感情を抱くのは当たり前のように思われるし、僕もきっとそうだろう。

〔死にゆく過程、その価値観〕

現代医療においては死にゆく過程における終末期せん妄は疾患として定義することも可能だし、現実的には治療対象となりうるかもしれない。さらに患者やその家族の苦痛を報告した科学的根拠があるのであれば、それは予防することが困難だとしても、起こった際に「適切」に対応することが医療者や介護者の役割であるようにも思える。しかしながら、それは医療を提供する側の価値観の問題でもある。

来迎図をご存じだろうか。平安中期以降、浄土信仰に基づいて描かれた仏画のことで、阿弥陀仏が諸菩薩を従え、衆生を極楽浄土に迎えるために人間世界に下降する様子を描いたものだ。衆生とは生命あるすべての物で人間をはじめとする生物全般を指す仏教用語である。つまり、阿弥陀仏が死にゆく人を迎え取るために降臨している様子を図示したものと言える。平安末期には一般庶民にも仏教、特に浄土思想が広まった。源氏や平氏を中心として武士が台頭し、保元、平治の乱を皮切りに、鎌倉幕府樹立まで争いが絶えない世となったこの時期。人々は死という存在をとても近くに感じていたに違いない。現世に臨むものはもうない。地獄と化したこの世界で生きる意味を失った人々は、浄土に往生したいと願うようになる。この時代、加持祈祷、現世利益を求め続けたのはごく一部の貴族や高級官僚だけだ。

生きることの辛さが、よりリアルなこの世界で、死後の世界は今の僕たちとは全く違う価値観の中に存在する。死亡直前のせん妄が、はたして幻覚なのか、来迎なのか。平安末期。今から千年以上も前の時代。それは生きた時代の相違があまりにも大きく、僕には想像もできない価値観だ。ただ、少なくとも死をどのように乗り越えるのか、その在り方は現在と全く異なっていたことは確かだと言えるのかもしれない。死にゆく、その状況をどう受け入れるのか、あるいは苦痛としてその現象をどう取り除くのか。現代において死は医療化されている

臨死体験から垣間見る死後の世界〕

人は死んだらどうなるのだろうか。僕は幼いころからずっと気になっていた。臨死体験とは症状の悪化や大事故などによって心肺機能のいずれかが停止したり、意識が完全に消失し、そのまま放置すれば死亡したと思われるものが、救命医療により蘇生し、回復した時に、意識喪失中の体験したこととして語る体験内容である。

昏睡状態で入院、もしくは入院中に昏睡に陥った101人のうち、心肺蘇生により救命し、意識が回復でき、失語や認知機能に異常を認めない38人(平均59歳)を対象に臨死体験について記述、検討した研究が報告されている。[5]

38人のうち14例に臨死体験を認めた。残りの24例を対象としてリスクファクターを解析したところ、年齢、性別、職業、宗教、学歴などの臨床背景因子が臨死体験の出現に寄与する可能性は低いとしている。また臨死体験の構成要素としては「暗闇の虚空と先方の薄明かり。」「死者との遭遇。」「小川や溜池」と言った要素が見られたと報告されている。臨死体験がもたらす影響として死への恐怖緩和や生活態度の内省的傾向など精神面に及ぼす何らかの影響が示唆されている。

〔医療は「生」のどこまでを追いかけるのか〕

臨死体験は蘇生を前提としている時点で、終末期のせん妄とはことなると言えよう。終末期せん妄と臨死体験では感じる世界が全く異なっているかもしれないし、そうでないかもしれない。少なくとも臨死体験はあくまで「体験」であり、疾患ではない。一方、終末期せん妄は同だろうか。せん妄と名指し意味づけることは少なくとも治療対象として、異常な現象と分節することである。終末期せん妄をポジティブに受け止める価値観は現代社会では主流ではないように思える。しかし終末期せん妄は実在しない。それは現象を僕たちの価値観で恣意的に切り取ったモノに過ぎず、本来は死にゆくコトの一部である。そして浄土思想ではそれを「来迎」と表現した。

死はまた一つの経験であり体験である。一生に一度しか経験、体験できないものではあるが、それは少なくとも異常なことではない。「生」と「死」、医療はどこまでかかわるべきなのか。死の間際なのか。そもそも生と死の境界は曖昧であり、恣意的な分節線だ。死を予感しながらも僕たちは生きる。そこに医療はどこまで追従するのか。死にゆく過程の中で、人の立ち振る舞いを異常とみなすかどうかは、僕たちの価値観や思想が決めることに間違いない。

〔参考文献〕

[1] Morita T.et.al. Underlying pathologies and their associations with clinical features in terminal delirium of cancer patients. J Pain Symptom Manage. 2001 Dec;22(6):997-1006. PMID: 11738162

[2] Breitbart W.et.al. The delirium experience: delirium recall and delirium-related distress in hospitalized patients with cancer, their spouses/caregivers, and their nurses. Psychosomatics. 2002 May-Jun;43(3):183-94. PMID: 12075033

[3] Gagnon P.et.al. Delirium prevention in terminal cancer: assessment of a multicomponent intervention. Psychooncology. 2012 Feb;21(2):187-94 PMID: 22271539

[4] Namba M.et.al. Terminal delirium: families' experience. Palliat Med. 2007 Oct;21(7):587-94. PMID: 17942497

[5] 山村尚子. 臨死体験 終末医療における意義の検討. 日本老年医学会雑誌 Vol. 35 (1998) No. 2 P 103-115 http://doi.org/10.3143/geriatrics.35.103